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学校珍百景:卒業式での女性教員の袴

卒業式をはく女性教員
 地域によって若干の違いはありますが、卒業生の女性担任が、卒業式においてをはく習慣がある地域が多いです。
 女子大生が自分の卒業式においてをはくことはよく知られていますが、最近の小中学校において、女性担任がをはいていることはあまり知られていません。
 ということで、卒業生の女性担任は、卒業式当日、自腹で早朝から美容院に行き、数万円かけてをレンタルしたを身につけ、高いぞうりをカッポンカッポン言わせて出勤・登校してくるわけです。
 ちなみに、男性担任は、結婚式の時と同じように、礼服に白いネクタイですが、最近では、男性担任も袴で出席することが増えてきたようです。
 なお、担任ではない他の学年の職員は、普通の正装であることが普通です。卒業学年の服装よりも目立った服装をするべきではない、という考え方があるようです。
 また、校長はモーニングコートを着るようです。

●学校現場での袴は教員が先
 さて、学校現場における女性の袴について調べてみると、女性が袴をはくようになったのは、学生ではなく教員が先だったようです。明治から大正時代に女子学校の教員が着用していたのがはじまりだということでした。そしてそれが次第に学生の制服として着られるようになっていったようです。
 女性教員が袴をはくようになったのは、おそらく着物よりも動きやすいからだと考えられます。当時から、動き回らなければならない職業だったのでしょう。
 そして、女学生が卒業式で袴をはくようになったのは、教育を終了し社会的知識と気概を習得した者の正装という意識からだったのではないでしょうか。
 現在でも伝統のある女子大などでは、権威を誇る教授が、卒業式の服装として「袴姿が望ましい」とコメントしたりというエピソードもあるようですが、一般的には流行だと考えられます。

●「ハレとケ」の世界観
 さて、もう一つ忘れてはならないのは、柳田國男氏が見いだした、「ハレとケ」という日本人の世界観です。
 ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表していて、 "ハレ" の場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、 "ケ" と区別するという考え方です。「晴れ着」という言葉は、ここからきています。
 卒業式はこの場合「ハレ」にあたりますので、普段とは異なる改まった衣装で、卒業を祝うという世界観です。ゆえに教師も、普段とは異なる、あらたまった服装で出席するわけです。その服装が、女性担任の場合袴だということだと思います。

●祝う服装は自由
 ここで注意しなければならないことは、卒業を祝う気持ちは誰もが同じであるし、その表し方についてはそれぞれ自由であるということです。
 もちろん、服装が突飛であったり、その場の雰囲気を壊すものであってはならないと思いますが、 "卒業式での女性担任は袴で参加するべきだ" とか、 "袴じゃないから祝う気持ちが足りない" だとか考えるのは大きな勘違いであり、間違いであるということです。
 しかし残念ながら、スーツで参加した女性担任に対して、一部の保護者から、 "祝う気持ちが足りない" という的外れな批判が起こることがあるのが現在の教育現場です。
 卒業式が「儀式的行事」というふうに学習指導要領で定義され、所作や雰囲気ばかりが重視されるようになってしまいました。服装もその一つだと思います。
 そんな中で私たちは、子どもたちに伝える大切なことを軽視してしまってはいないでしょうか。
 「動くな!」「音をたてるな!」と指導?する前に、子どもたちとの関係、子どもたち同士の関係の中で、「卒業」をどう指導するかについて、こんな時代になってしまったからこそ、見つめ直してみる必要があるのではないでしょうか?その上に立って、教師の服装についても考えてみたいものです。


 

フェアという名のアンフェア~学校編~

「人として<当たり前>のことを教える」という、<特別>の教科道徳

個性を生かすための、国による道徳

気遣いのためにふさがれる口

「仲良し」を目的とした、子ども支配と個性つぶし

「解決するため」という丸め込み

授業改善のかけ声で生まれる、授業崩壊

良い返事ばかりが飛び交う、ワカラナイ授業

良いあいさつばかりが聞こえる、対話の無い関係

心を整えるはずの、履き物を揃えるストレス

忙しさを軽減する為の、忙しさ

ストレスチェックをしなければならない、ストレス

不祥事を指導する側が起こす、ストレスによる不祥事

不祥事を起こすな!!というパワハラ

「なんでも言いなさい」という、脅し

「静かにしてください」という、うるささ

不登校ゼロを目指す学校の、教師の不登校

学級崩壊立て直し請負人という、非同僚性

<黄金の>三日間と名付けた、<地獄の>調教期間

複線化の学校づくりを目的とした。学校連携

飛び級ありの義務教育学校

仕事内容の増えた、ノー残業デー

和を乱す、教師のユニフォームづくり

仲間外れを生み出す、チーム〇〇

先割れスプーン

与えられた「形状」で精一杯仕事をしたのに、一方的に批判されてしまった……、みんなが知っていて、好きではないけどなぜか懐かしい道具……、そんなふうに表現できるのが、給食で使った「先割れスプーン」です。そんな「先割れスプーン」の生きざま、立ち位置が『教師』とダブって見えてしまうのは私だけでしょうか。

「先割れスプーン」は、「突き刺して食べる」ことと「すくって食べる」という二通りに使えるという利便性を買われ、1950年代頃から学校給食で用いられました。

ところが、「箸が使えなくなったこと」や「犬食い」の原因とされて批判され、今では、箸を持ってきたり、sporkを使ったりするのが一般的になっています。

ご飯を「先割れスプーン」を使って食べることに違和感はありますが、箸を上手に使えなくなったこととは直接リンクしないのでは?と考えます。「違和感」について言えば、どんな料理でも牛乳を飲まなければならないことの方が違和感があります。

また、箸を使っても「犬食い」をなおすのには苦労します。今は箸を使っているのに「犬食い」がなおらないのは、犬食いをしてしまうのは「先割れスプーン」のせいではなかったということです。

そんな「先割れスプーン」。今でも時々見かけることもあります。あんなに批判されたのに、それでも出番が来ると、けなげに仕事をしています。

「いただきます」にも地方色

給食の食べ方にも、地方色があることを、先日、職員同士の会話の中で発見しました。

たとえば…、茨城・水戸出身の教員は、自分が小学生の頃は、全員が帽子、かっぽうぎ(持ち込み)を着て食べるそうです。また、毎日自宅から、おてふきたおるを持ってくるとか。

清掃と同じように、給食もまた、地方によっていろいろな文化が生まれているんだろうな、と思いました。

手を合わせて「いただきます」を全国区だと思っている人がいたら大間違い。(けっこう、最近、そう思っている人が多い)

お辞儀をする地域もあるし、言葉だけの地域もあります。それでも感謝の気持ちは変わりません。

問題なのは、手を合わせていないから感謝が足りない…、だとか言い出すことです。逆に、統一された行動をしていれば、それで "感謝完了" と済ませてしまうことです。

そういった意味で、「学校スタンダード」には、 "心がない"。

続・清掃活動

清掃活動について…、つまり、学校で子どもが掃除をすることについていろいろ調べてみると、世界の中では賛否両論あることがわかってきました。

教育としてすばらしい取り組みだとする人と、逆に、児童労働・虐待になりかねないと懸念する人、学校は掃除よりも勉強の場所であると主張する人もいるようです。

そこで、なぜ日本の学校は、子どもが掃除をするようになったのかを調べてみました。

『沖原豊著『学校掃除』(1965・学事出版)』 によると…、

子どもが学校を掃除する国は、日本を初めとするアジアの仏教国、または仏教的伝統をもつ国々です。

これらの諸国では、掃除を開悟の手段、人間修行の重要な方法とみなす仏教的掃除観が、学校掃除の背景をなしているようです。すなわち、掃除は単に身辺を清潔にするだけでなく、それは心の塵(ちり)や垢(あか)を取り除く「心の掃除」に通じるものをもっている、としています。

また、わが国の掃除は穢(けがれ)や不浄を忌む神道の清浄感にも深く根ざしていて、学校掃除の背景には、神道の影響もみられるようです。

なお、学校掃除には、清潔の習慣の育成、公共心の育成、健康の増進、勤労の体験などの教育的効果としてのねらいもあります。

しかし、こうして続いてきた日本の学校の掃除ですが、はたしてこんにち、教育的取り組みとして成立しているのでしょうか。

子どもたちの生活スタイルの変化、大人の学校に対する価値観の変化、それらを総合的にもう一度見直して、子どもが掃除することについて、教育的に構成し直してみてもいい時代なのかもしれません。

清掃活動

日本の清掃活動が世界で注目されているそうです。そもそも日本以外では、学校を子どもたち自身が掃除する国は少ないのです。欧米の学校では専門の清掃員が学校の掃除をするのが一般的です。だとしたら、日本の子どもたちの学校掃除は、「学校珍百景」なのかもしれません。

しかしながら、日本の子どもたちの「清掃文化」には、地域によって様々な特徴や、愛すべき「珍百景」があることも事実。

最近話題になったのは、福島県いわき市の子どもたちは、清掃の時に「ひざあて」をすること。地元の方たちにとっては、全国みんな「ひざあて」をするものだと思っている人が多いらしいのです。しかしこれはどうやら、いわき市だけ。

長野県の筑北村立聖南中学校の「どっこい清掃」は有名です。清掃の時間の間、男子生徒は一年を通して上半身裸に短パン、女子生徒は体育着で頭に手拭い、タオルを巻いて、「どっこい、どっこい」と声を出しながら雑巾がけ等を行います。

逆に、両手を前に出して行う、いわゆる「ぞうきんがけ」が禁止されている地域もあります。理由は、顔面を強打したり、歯を折ったりの怪我をするから。こういった地域では、「ワイパーふき」で床をふいているようです。実は、本市の学校では、禁止している学校が多いのです。

「プール開き」とお清め

天候にはなかなか恵まれないのですが、水泳指導がスタートしています。

さて、学校の「プール開き」でも、塩やお酒で清めの儀式をして、安全を祈願する風習があります。学校によっては、神主さんを呼んで、本格的にお払いをするところもあるようです。

このように、日本の学校の儀式や風習は、神道からのものが多いのです。

塩とお酒は、水の神様へのお供え、という意味と「お清め」という意味があるようです。

塩がどうして「お清め」に使われるのかというと、私の記憶違いでなければ、海が罪やけがれを浄化する場であったからだったと思います。つまり、海からとれる塩も神聖なもので、万物を清める浄化力があるのだと。

ちなみに、仏教には「塩」で清めるといったことはしません。にもかかわらず、仏教のお葬式でも「塩」で清める習慣があるのは諸説ありますが、神仏習合による日本人らしい発想なのかもしれません。

お酒は確か…、たとえば、八岐大蛇を退治した時に、お酒が使われたように、お払いする意味があったと思うのですが、未確認です。

プール開きのお清めの式次第を調べてみました。

公立学校において、こういった行為が憲法に違反しているのか、それとも、宗教ではなく、風習・文化としてとらえるのかについては意見が分かれるところです。

ちなみに本校では、ここまではやっていません。

1) プール前に机か台などを設置し、お酒、塩を置き、一同整列しますが、一同がプールが見えるように並びます。

2) 校長先生など代表者が台の前に立ち一礼し、心の中で「はらいたまえ、きよめため」ととなえ、塩と水を適量プールにまき清めます。

3) 一同で黙祷し安全を祈ります。 (一同で二礼二拍手一礼で拝礼してもよいです)

4) 場合によっては、一同で机の上の清酒で乾杯し、塩を肴にします。

5) 一同退出。

「学校珍百景」の発生について

「学校珍百景」の意味を考えるパート2です。

書籍「学校珍百景2」の、「はじめに」では、学校珍百景の発生について以下のように書いています。

----↓ここから↓----

一つ目は、見た目や形ばかりの「良い子モデル」「良い教育」が前面に出されるようになったこと。そしてそれは、わざとらしさく見えたり、誰もが「意味がない」とわかっていてもそれを推し進めざるを得ない現実が「珍百景」になっているケース。

二つ目は、「お上」が決めたことを、子どもたちや地域のリアルな現実を無視して強引に現場に降ろし、しかもそれを、どの教師にも統一してやらせようとするので、そこに無理が生じて発生する「珍百景」やハラスメント。

三つ目は、学力テストに代表される“競争の土俵”に、学校丸ごと乗っかり、そこで発生する、様々な笑えない「珍百景」。

お気づきにように、こういったことはもはや「珍百景」などとのんきなことを言っていられない非常事態であるとも言えます。現場には、教師にとっても、子どもたちにとっても、理不尽な嵐が吹き荒れているのではないでしょうか。

----↑ここまで↑----

この頃から、日本の教育には、一斉・一律の国家主義的な側面と、競争を強いるな新自由主義的な側面があることを私は感じていたということです。

それが、学校あるあるとは別な、新たな珍百景を生み出すことになっているということです。

「学校珍百景」をテーマにして連載記事

まだ正式にはお知らせできないのですが、あるところで、「学校珍百景」をテーマにして、15回の連載記事を書くことになりました。

「学校珍百景」というのは、私たちのチームが書いた本の名前です。学事出版から「学校珍百景2」まで刊行されています。

そこで、これを機会に「学校珍百景」とはなんなのかをきちんと考えておく必要があると思ったので、書いておきたいと思います。

書籍「学校珍百景」の "はじめに" で、どうしてこのような本を書いたのかを次のように述べています。

----↓ここから↓----

一つは、形骸化し、子どもたちからすれば「適当に合わせておけばよい」とさえ考えられている教師の指導や学校文化について、そのとらえ方・考え方をひっくり返し、そもそもなんだったのか?を考えるきっかけにしたかったということです。

二つ目は、子どもたちとの見せかけの「信頼関係」の上にあぐらをかいて、実は子どもたちが私たち教師に合わせてくれていることに気づかず、思い上がった指導をしている私も含めた日本の教師に自戒の思いを込めた、ということ。

三つ目は、子どもたちの心の底まで管理・支配しようとしている今日の教育政策について、それを笑いとばす力量がほしいと思ったからです。

----↑ここまで↑----

当時の私の思いを分析すると、要するに『指導とは何か』という問題について問い直したかったのだと思います。それは指導ではない、そんなことを指導だと考えているの?といったことですね。

つまり、「学校珍百景」とは、教師・学校の一方的な思い込みや誤魔化しが、よく考えると、おかしなことになっているということを指しています。そして、そのことを誰もがわかっているのに、誰も触れようとしないことのダブルな「おかしさ」を「珍百景」と呼んだ、ということです。

情報提供と授業とは違う

最近学校で、お金を払って外注授業をしてもらう取り組みが目に付くようになりました。本来授業をする場所の学校が、お金を払って外部に授業をしてもらうといったこと自体が「学校珍百景」なのですが……。(笑)


この外注有料授業を参観させてもらう機会が何度かあります。しかし申し訳ないのですがどの授業も「授業」として成り立っていないというのが本音の感想。(あくまでも私が参観した授業だけの感想です)。あらためて日本の教師は力量がある、と思ってしまう。


何がいけないのかというと "情報提供のみに終始している" ということ。子どもに考えさせ、意見交換による教育力を発生させていない。外注授業はその道の専門家が進めていることが多いので、情報の質としてはAランクだと思うのですが、その情報を提供しているだけなので「授業」としてはかなり質の低いものになっている。


たとえば、発問をして、子どもの意見が分かれたとします。私たちはそれそれの理由を発言させ、時には意見をたたかわせて考えを深めたり、さらに新しい課題を持つように導きます。外注授業はそれができない。なぜか……。それは「子どもを知らない」からです。


私たちは目の前の子どもが、場面によってどのような考え方をしてどんな発言をするのかを「知っている」のです。知っているからこそ、意見交換を "学びが深まる方向で" 「瞬時に」プロデュースすることができる。これはベテラン、若手に限らずできる。気づいていないだけで誰でもやっている。


実はこのことは、上から指導案が降ろして「同じ授業をしなさい」という文科省・教育委員会もわかっていない。同じ授業などありえない。授業は生き物で、子どもたちによってその授業は様々に変化する。そしてどう変化するのかを見通すことができるのが担任。文科省・教育委員会はできない。


ちなみに、飛び込み授業をするような名人教師は、授業を進めながら子どもを知る作業をしている。授業を見ているだけでこの子はどんな子なのか見えてくる。ここまでくると名人技。そんな名人技の授業は、長い教員生活の中で私は二度しか見ていない。全く違った思想をお持ちの二人なのだが、私の中の "授業名人"。


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ヨシムネ&ねね

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ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

ねね
ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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