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ろくぼくの「肋」

学校珍百景2の原稿で、「ろくぼく」のことを調べていて、「ろくぼく」とは「肋木」と書くことをあらためて思い出しました。

で…、注意しましょう!「肋」とは、「助」ではありません。

そして、「肋」とは、訓読みで「あばら」。

「あばら」とは、「隙間が多くて、荒れた様子」の「あばらや」から通じるものがあるという説もあるようです。

ということで、「ろくぼく」とは、すきまをあけて木が並べられている運動器具、ということになりそうです。

生徒指導教師のイメージはなぜジャージに竹刀?

●生徒指導教師のイメージ

 生徒指導の先生のイメージ。
 なぜか、線の入ったジャージで、手には竹刀を持っている……。
 このイメージが定着したのは、金八先生の「腐ったみかんシリーズ」だと思うのですが、あのドラマを見たほとんどの人は、生徒指導教師のイメージについて違和感を持たずに受け入れたと思います。
 ジャージで、どんなところでも追いかけてくる。
 そして竹刀で厳しく指導される……。
 つまり、生徒指導のイメージは、生徒を厳しく取り締まるイメージだということです。

●「生活指導」と『生徒指導』
 『生徒指導』ではなく「生活指導」という言葉があります。
 「生活指導」とは、日本の教師たちが長い教育伝統の中から生み出した言葉です。民主的教育運動の従事者たちが大切に育ててきた言葉で、戦後の一時期、当時の文部省も使用していたこともありました。
 そもそも「生活指導」とは、子どもたちが生活と学習の共同化を追究し、それを自治する中で人格を民主的に形成していくように指導する教師の教育的な営みだといえます。つまり、自治の指導を通して、民主的な行為・行動を指導することが「生活指導」です。
 ところが、1960年代に入って、当時の文部省当局は、「生活指導」という用語をことさらしりぞけ、代わりに『生徒指導』という言葉を使用することを強要してきました。
 1960年代と言えば、高度成長政策真っただ中。
 教育界では、国や大企業にとって必要な人材育成にも躍起になっていた時代。
 「能力の開発」「能力適性に応ずる教育」「能率的学習」等々が主張され、国や大企業に必要な「能力」を育成することが叫ばれました。
 また一方で、「後期中等教育の多様化」も打ち出され、子どもたちを選別差別する受け皿も準備されました。
 こうした「能力主義」の時代に生まれてきたものが『生徒指導』という言葉なのです。

●その正体は訓練と取り締まり
 「能力主義」は、子どもたちが高め合い、励まし合うことの代わりに、教師が提示する刺激にいかに効率よく反応できるかが重視される競争だと言えます。
 素早く反応できることが「標準」、教師の意図を先取りして振るまえることを「自主性・創造性あり」と評価。そしてそれ以外の子どもたちは不可避的に劣等児となる仕組みになっています。
 こうして教師の要求や意図に応えることのできる子どもたち訓練し、それに対して異議申し立てをしたり、要求されたこと以上の行為行動をとったりすることを徹底的に取り締まります。つまり、『生徒指導』の正体は、 "訓練と取り締まり" だと言えるのです。そこには、子どもたちの自治が入り込む隙はありません。
 『生徒指導』の教師が、ジャージで竹刀を持っているのは、訓練と取り締まりをする教師のイメージとぴったりだからだと言えるのではないでしょうか。

●「生活」を指導する
 「生活指導」はまず、子どもたちの学習・生活要求を聞き取り、組織します。
 そしてその要求実現・課題解決に向けて、学級・学校の現実、さらには家庭や地域の現実にはたらきかけていくように指導します。
 そして子どもたちは、その中で、仲間や集団との関係、さらには、教師や学校との関係の民主的なあり方について考え、取り組みます。
 『生徒指導』が主張する、能力主義のもと、訓練・取り締まりすることとはまったく別な(逆な)指導だと言えます。
 今では、当時の訓練・取り締まりの『生徒指導』はさらにパワーを増し、訓練が、⇒官民一体となった調教に…、取り締まりが、⇒排除の不安をあおる脅しになっています。
 そんな時代だからこそ私たちは、「生活指導」の精神を思い出して大切にし、多様な形で発信されている子どもたちの異議申し立てに注目し、悲鳴をあげている子どもたちの声を聞き取ることからはじめるべきだと考えています。
 取り締まる前に "聞き取ろう!"
 訓練させる前に、その訓練の意味を "再考しよう!"

下敷き事情

●下敷きが団扇(うちわ)になってた時代

 下敷きの思い出……。
 その正式用途以外の使い道は、一つは暑い日の団扇代わり。
 先生から、
「あおぐな!よけいに暑くなる!」
と、叱られた経験……、 "あるある" ですね。
 もう一つの用途は、静電気の実験。
 下敷きで頭や脇の下でこすって髪の毛を逆立てる遊びは多くの人が経験済み。
 他にも、下敷きで太陽を見る、というのもありましたね。
 ところが最近の教室はエアコン設置。
 ウチワとして使うことはなくなりました。
 また、最近の下敷きは静電気防止の加工がされているのでしょうか?
 髪の毛を逆立てて遊ぶ子どもの姿もあまり見られなくなりました。
 さらには、絵柄がたくさんあったり、材質が薄くなったりして、遮光板のように太陽を見ることもなくなりました。
 その他、忘れられないデザインや、自分で書いた落書きなど、下敷きは子どもの頃の懐かしい思い出の一コマとして存在している人が多いのではないでしょうか。

●下敷きを面倒がる今どきの子どもたち

 さて、今どきの子どもは、指導しないと、下敷きを使わない子がどんどん増えてきます。
 理由の一つは、「いちいちノートにはさむのが面倒だ」ということ。
 二つ目は、最近の学校のプリントはA版なので、B版のノートに合わせている下敷きは使いづらい、ということらしいです。
 プリントの大きさの問題はともかく、下敷きをはさむ動作まで面倒に感じる今どきの子どもって……、と思いますが、それはさておき……。
 今どきの子どもたちが面倒がる下敷きっていつ頃から、どのような事情で使われるようになったのでしょうか?それがわかると、今どきの子どもたちが下敷きを必要としない理由がわかってくるかもしれません。

●欧米では使われていない

 まずは、下敷きを使う文化が当然になっているのは日本だけかもしれない、というお話。
 実際、欧米ではほとんど使われていないようなのです。
 日本の学校で使うのがあたりまえになった事情は、おそらく、日本の机のでこぼこ事情。そもそも当時の日本の学校の机は、いたずら書き、いたずら彫りで、とてもその上にプリントを置いて文字が書ける状況ではなかったということかも。欧米では、そういったことかなかったということだと思います。
 また、下敷きをノートにはさむようになったのは、紙の質の事情かもしれません。
 昔は、下敷きを使わないと、その裏のページが醜くでこぼこになったり、字が写ってしまったりしました。しかし最近のノートは、筆圧にもよりますが、以前ほどでこぼこになったり字が写ったりしないようです。
 また、欧米では基本的にボールペンやペンでノートを取ることが多いので、下敷きを敷いた状態では逆に書きづらい、ということもあります。
 最近の子どもの中には、下敷きを使った時の、ツルツル、コツコツとした感じが嫌だ、という子もいます。紙にグッサリと書きたい、ということらしいです。

●子どもに決めさせる時代かも

 日本の場合、「筆記用具」と言えば、その中に「下敷き」が含まれていることが多いです。
 しかし、今の時代、下敷きを使うべきかどうかの検討があっても良いのかもしれません。
 しっかりとした筆圧で書くことは大切ですが、その筆圧に違いがあるのは当然です。筆圧によって、下敷きがない方が書きやすい子どもがいてもおかしくないし、私たちはそれを認めなければならないのかもしれません。

学校は「そろえさせたがり」

●見た目を "そろえたがる癖(へき)"

 なぜか日本の学校は、見た目をそろえたがる傾向があります。
 たとえば……、「傘立て」で、傘の柄の向きをそろえる学校があるという話を聞きました。
 見た目がきれいだと、そこにいる子どもの心も「美しく」なるらしいのです。
 もっとも、最近の子どもの傘は、なかなかおしゃれになってきていて、柄がストレートなものが増えてきました。曲がった柄の向きをそろえたところで、きれいでもなんでもなくなった、というオチのある話ですが。
 また、下駄箱に靴を入れるのに、下駄箱の "ふち" から靴のかかとを5mmにそろえる学校があることを聞きました。お気づきのように5mmである根拠はなんにもありません。1cmでもいいわけですが、そもそもそんな長さを決めること自体、珍百景であることに気付いていないようなのです。

●そろえたがる理由

 日本の学校が、見た目をそろえたがる理由はいくつかあります。

(1) みんな同じように指導することが平等であるという形式的な平等主義の考え方が、日本の学校には根強いこと。
(2) 日本の学校は、その指導の成果が、個別でなく、集団的に評価される(学級ごとに、学年ごとに、学校ごとに評価される)性質を持っていること。
(3) そろっていなくてバラバラだと、 "指導が行き届いていない" 、という評価をされること。あるいは、評価される側がそう思い込んでいること。
(4) 学校や教師が、指導の成果を目に見えるようにアピールしたいと考えること。

 しかし、日本の学校のこういった傾向が、ある落とし穴を生み出していることに気付いている教師は少ないようです。

●排除を生み出す危険

 まずは、そろえることの教育的意味を十分に検討する必要があります。つまり、傘の柄の向きをそろえること、かかとを下駄箱のふちから5mmにそろえることが本当に子どもたち一人ひとりを育てることになるのか?という問題です。少なくとも私は、そこに教育的意義が感じられないのです。
 今ひとつは、そろえようとする指導?は、そろえられない子、そろえようとする作業が遅い子、意義を感じずにそろえようとしない子を排除することにつながる、ということです。
 また、たとえ全ての子がそろえることができたとしても、それは、排除の不安を与えて行動させただけで、傘の柄の向きをそろえることの意義を感じて行動したわけではない、ということです。
 指導とは、できない子・やろうとしない子の事情や背景について、まずは聞き取ることが大切です。そろえる指導は、子ども一人ひとりの事情や背景を飛び越え、子どもに理解のない、理不尽な指導になってしまう危険性があるということです。そこからは、教師への不信感しか生まれないでしょう。

●子どもの事情を理解し個性を伸ばすことを支援する

 たとえば……、教室の机の高さが、学年ごとに統一されていた時代がありました。
 それが最近の学校では、子ども一人ひとりの身体に合わせて、机の高さを調節するようになりました。したがって、ほとんどの学校の教室の机の高さは、同じ学年でも昔のようにそろっていなくて、でこぼこしているはずです。見方によっては、見栄えは悪い。
 また、アレルギーのある子どものために、対応した給食を出すのはもう当たり前です。
 ランドセルの色も多様になりました。男の子が黒、女の子が赤、といった時代ではなくなりました。
 このように、そろえたがる学校の思惑に対して、安全・健康の面から、そして保護者や子どもたちの側から、そろえることに対して異議申し立てがなされ、学校はそれを認めなければならないケースが増えてきているということです。
 多様性や個性を認めることは、わがままを許すことではありません。それぞれの個性や事情に理解を示すことは、人と人とのつながりをより強く、広くしていくはずなのです。
 『見栄えよりも、個性と権利』を大切にして、指導していきたいものです。

「学校珍百景2」執筆開始!

Amazonのレビューに、 "職員室のおしゃべりレベルの話を本にするな!" "目次を読んだだけで反吐が出る" 、と酷評されている「学校珍百景」ですが、教師のみなさんには大好評!おかげさまで2刷りになりました。ありがとうございました。

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さて、この学校珍百景シリーズ。来春第二弾の出版に向けて執筆をスタートさせました。

「チーム珍百景」のメンバーも、さらに若手を加えてはりきっています。どうぞお楽しみに。

なお、珍百景2の下書き原稿の一部を、このブログに『予告』として掲載していく予定です。このblogのカテゴリー「学校珍百景2」でご購読下さい。

今大切なことは疑うこと

全国の教師が悲鳴をあげています。できる教師にならねば…、良い子を育てねば…、しかしそれがなかなかできない自分を責めています。

しかし今大切なことは、「できる教師」を疑うこと。「良い子」を疑うこと。

「できる教師」になろうとすることが、子どもを支配・管理し、子どもの権利を奪っているとしたら……。

「良い子」っていったいどんな子のなのか。「良い子」にするために、その子らしさを奪い、強引な「指導」が、子どもの生きる権利を奪い、教師との関係を崩していないか。

首を強く振って、両手で頬を叩いて、目を覚まそうでありませんか!

素直な子

指示したことにすぐに従えない子に対して、
「まったくあの子は素直じゃないわね!!」
などと怒っている風景をよく目にするわけですが……。

「素直な子」って、どんな子だろう?っていうお話です。

自分を殺して我慢して、盲目的に従う子じゃないですよね。

逆じゃないかなあ?

自分の考えを持っている子。他の人に素直ではなく、何よりも自分に素直であること。

そういった意味で、「(自分に)素直な子」と、頭に(自分に)をつけた方がいいかも……。

言いたいことがあったらはっきり言うこと。もし言え(わ)ないのなら気にしないこと。それができるのが「素直な子」。

素直さとは、自分を殺して他人の犠牲になることではないのだと……。

自分の価値を認め、自分を大切にできるということが、きっと素直であるということだと思います。

自分を大切にすることができる子は、他人も大切にできます。

自分の心に素直に生きていたなら、自分を責めることも、後悔することもないですね。

時間を守れる子が「良い子」なのか

「良い子」の条件3つめは、「時間を守る」です。

さて、沖縄の人は時間を守らない、とよく言われます。どうしてなのかを聞いたことがあるのですが、その理由を思い出すままに簡単に書けば、

○沖縄の人は、だいたいの時間しか決めない。理由は、それぞれの事情を考慮するから。一人ひとりの事情を尊重するから、
○早く始めたり、待たされたりすることを、 "損をした" とは考えない。つまり、みんな同じであることを「平等とは考えない」。一人ひとりの事情から物事を考えることを真の平等だと考える。

だったと思います。間違えていたらごめんなさい。

なるほどと思いました。

時間を守るだけでなく、守れない仲間の事情を考えられる子を育てたいと思った次第です。

二足制

学校において上履きを利用している「二足制」が存在する国は、なんと日本だけらしい。しかも、日本においても、地域によっては、一足制の小学校もある。

にもかかわらず、 "上履きをきちんとそろえて下駄箱に入れる" ことと、 "週末に上履き持って帰り月曜日には忘れないこと" が子どもたちの基本的習慣においてとても重い位置付けになっているのはどうしてなのか…、を考えてみたいと思い立った。

まず、どうして上履きを利用し始めたのかを調べてみた。

結論としては、どうして利用し始めたのかはいくら調べてみてもわからなかった。したがって、どうして上履き制度が日本の学校に根付いたのかは以下 "私見"、ということになる。

結論から述べよう。まず、なぜ日本に上履き制度が始まったのか。それは、
『日本には屋内で靴を脱ぐ習慣があったから』
である。www

校舎が和風から洋風になっていった時代、外靴のまま校舎に入ることも考えたのだと思う。しかし、雨の多い日本、そして当時の道路事情から、外靴のまま校舎に入るのはさすがにはばかられたのではないだろうか。かといって、衛生面や危険性等々を考えると、どうしても裸足のままでは困る……。そこで「上履き」。

もう一つ。服装の問題である。服装が和風から洋風になっていくにつれて、当初、足袋を履いていたであろう足下が、靴に変わっていったことも考えられる。

さらにもう一つ。「上履き」があると、学校にとってとても都合のいいことがあったのではないだろうか。実はこれが一番重要。

平成20年2月に発行された『平成19年度 調査報告 教育課程の実施に伴う学校経営上の課題 各学校で特に効果のあった取組編』(埼玉県公立小学校 校長会、教育課程委員会発行)によると、規律ある態度を達成するために効果のあった取り組みとして以下のような解答がある。

「あいさつ」     206校(25.1%)
「早寝早起き朝ごはん」100校(12.2%)
「清掃」        62校( 7.6%)
「時間を守る」     61校( 7.4%)
「はきものを揃える」  85校(10.4%)

ここでは、子どもたちに規律ある態度を育てるために、履物を揃えさせることが重要な指導項目としてあげられていることがわかる。

つまり今では、上履きがあるから揃えさせるのではなく、上履きを揃えることが(上履きが存在することが)生徒指導にとってとても都合の良いことになっている、という見方ができるのではないだろうか。そう考えると、下駄箱のふちから5mmにかかとを揃える、という正体がわかってくるのである。

揃えようとしているのは、かかとではなく、子どもたちの「心」だった…、ということである。

「良い子」は靴をそろえる?

日本の子どもで、「あいさつ」と共に、良い子の条件としてあげられる条件の一つに、「靴をそろえる」というのがあります。

靴を脱いでおじゃました時には、必ず靴の先を向こう側に向けて、きちんとそろえておくこと…。それができない子は、しつけができていない子、けじめのない子、ということになっています。

学校でも、下駄箱の靴の入れ方は、つま先を向こう側に向けて入れること。なかには、 "くつのかかとは下駄箱のふちから5mmあける" 、などというわけのわからないきまりを作っている学校もあります。理由は、見た目がきれいだからだそうです。

こういったわけのわからないきまりを作る学校は、なぜ日本人が靴を脱ぎ、揃えることが大切だという価値観をもっているのか等々、日本の文化の問題などまったく考えていません。ただひたすら、見た目のきれいさを強調し、自分の学校の指導力を誇示したいと考えているだけの場合が多いです。

教育とは、靴を揃えさせることではなく…、ましてや下駄箱のふちから5mmに靴を入れさせることではなく、なぜ日本人は履き物を脱ぎ、そろえることを美徳とするのかを考える力です。そして子どもたちはそれを知る権利があります。靴を揃えさせたかったら、そこまでの学びを保障しなければなりません。そして、その学びのあと、自分はどうするかを決めるのは子どもたち自身だということ。

【靴を脱ぐ習慣の理由諸説】
◎畳や布団などを利用する日本の伝統的家屋の様式に基づく。
◎同じく高温多湿な中国の南部地域の影響を受けた。(中国のほとんどは脱ぐ文化はない)
◎木造家屋が主流だった昔の日本。湿気から建物を守る目的があった。湿った履物を脱がなければ建物を傷めてしまいます。特に木造建築が主流だった日本ではなおさらのこと。
◎アスファルト舗装の無かった時代の衛生上の理由もある。

ちなみに、日本と気候が似た韓国や台湾などをはじめ、東アジアや東南アジア、トルコなどにも日本と同じ様な文化があります。

したがって、仏教からくる、結界・けじめ、という考え方はあとから(または別に)できた考え方なのかもしれません。気候と建物の事情から、というのが靴を脱ぐ起源として正しいような気がします。つまり、靴を脱いで揃えることが、仏教の "教え" と結びついた時、いわゆる「しつけ」の問題になっていったと考えられるわけです。

一方、ヨーロッパや中国などでは、家の中や人前で靴を脱ぐのは「はしたない」と言われます。裸足や靴下のままお客さんを招くのはとても失礼なこと、気品に欠けてて、情けない人、って事になるそうです。

長くなったので、学校の上履き制度(二足制)についてはまた別の機会に調べてみます。

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 塩崎義明(しおちゃんマン)の公式メインブログです。教育問題について語ります。

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 37年間千葉県浦安市の小学校現場で学級担任として勤導論などを担当。全国生活指導研究協議会常任委員。黒猫大好き。

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ヨシムネ&ねね

しおちゃんマンの飼い猫、黒猫ヨシムネと ねね

ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

ねね
ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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