学校に、当然のように存在している者を疑っていくのが、「学校珍百景」シリーズです。本の出版も仲間たちと企画中ですが、このブログでも、カテゴリ「学校珍百景」で書いていこうと思います。
〜日直はいらない〜● "存在することが前提" の代表選手を疑う
日本の学校の教室の黒板の右下には、消えないペンキ?で、最初から「日直」と書かれています。どうやら、日本の学校の教室には「日直」というのはあるのは "アタリマエ" ということらしいのです。(地域によっては「日番」と呼ぶところもあるようです。)
しかしこの「日直」……、本当に必要なのでしょうか?存在することが "アタリマエ" と考えられているこの「日直」制度。まずはこれを疑ってみることから始めてみましょう
●日直のお仕事
そもそもこの「日直」の仕事ってなんでしょうか?
・朝、登校したら窓を開ける。
・朝の会と帰りの会で司会をする。
・授業の始まりと終わりにあいさつの号令をかける。
・黒板を消す。チョークを用意する。
・放課後、窓を閉めたり机の整頓をする。
地域によって多少違いはあるとは思いますが、これらの仕事を、大抵は男女の二人身組で、順番に務めていくのが日本の学校の日直制度のようです。
ところが、仕事の内容を見てみると、これらはほとんど係活動でまかなえるものばかりです。つまり、窓の開け閉めは窓係が、授業の始まりと終わりの号令は号令係が、黒板を消すのは黒板係が、整頓は整頓係、司会は議長やリーダーでやればよいのです。それらをわざわざ「日直」の仕事として進めるのはなぜなのでしょうか?しかも、そういった "風習" が日本の教室にずっと残っていて、あるのが当たり前になっているのはなぜなのでしょうか?
私たちが何の疑問も持たずに受け入れている日本の学校の「日直」制度。このことの意味を考えた時に、日本の学校がどのような教育観・学級観を持ってきたのかが見えてくるような気がするのです。
●「日直」の意味
「日直」の「直」という字には、「(任務などに)あたる」「当番として順番に」という意味があります。そして、「宿直」が「宿泊して任務にあたる」ことに対して、「日直」はその日に任務にあたることを指します。
つまり、 "やるべき仕事がはじめから決まって" いて、 "その仕事は子どもたち全員に、順番に必ずやらなければならない" というのが日本の「日直」制度なのです。
そういった制度がすべての教室に、当然あるべきものとして存在しているところに、日本の学校制度・学校学級観の特徴があります。
その特徴の一つは、すべての学級は一律に組織され、運営されなければならないという考え方。特徴の二つ目は、教育活動・学校生活に必要だと教師や大人が判断したものについては、子どもたちは有無も言わせず従うべきであるという考え方。そして特徴の三つ目は、学級の仕事は、全ての子が平等にやらなければならないという考
え。つまり、順番こそ平等であるという考えです。
わたしたちはこれらの「特徴」について、批判的に考えざるを得ません。
●検討されなければならないこと
「日直」の仕事は、低学年の子は比較的楽しみにしていています。しかしそれは、学年が上がるにつれて嫌がる子が増える傾向があります。高学年の子どもによっては、嫌悪感さえ持っている子もいます。
低学年の子が比較的楽しみにしているのは、自分がみんなの前で評価されることと、自分の指示にみんなが従ってくれることがうれしいと感じることがあるからです。
高学年の子が嫌がるのは、学校や教師に従うこと、良い子でいることへの反発です。まわりの仲間もそういった子に対して批判的な目を向けることがわかっているからです。
だとしたら、「日直」制度については次の二つの検討を子どもたちと一緒に進めなければなりません。
一つ目は、「日直」が行う仕事の中身の検討。
二つ目が、内容の検討と共に、それを全員が順番にやる必要があるのか?という検討です。
それらの検討無しに導入される「日直」制度は、学校に適応することを強いるだけの制度であり、子どもたち一人ひとりの教育を受ける権利を奪っていく最初の一歩になっているのではないでしょうか?
ちなみに私の学級には、「日直」制度はありません。