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学校珍百景:「朝の会・帰りの会」はいらない

●テンションの低い朝の会

 小学生も、年齢が上にあがるにつれて、朝のテンションが低くなってきます。
 原因は、寝不足。朝からあくび、というのはひと昔前のこと。今では、朝からつっぷして居眠りをしている子もいるのが今の高学年以上の子どもたち。また、居眠りまでいかなくても、朝の学校生活は、ほとんどの子がボーッとしているのが普通。脳が活性化してくるのは、午前十時頃からでしょうか?
 そんな子どもたちの生活背景を知ってか知らずか、校門では朝の挨拶運動。テンションが高いのは教師だけ。当然、「高学年以上は挨拶ができない」「声が小さい」という教師たちの評価と愚痴。しかし考えてみたらあたりまえなのです。
 逆に、朝の読書で気分を落ち着かせ、集中力を養うという取り組みも広がっています。
「すでに、落ち着きすぎるほど落ち着いちゃってるんですけど?」
というつっこみをいれたいほど、子どもたちのテンションはすでに低いのです。
 さらには、朝の読書のあとに、「朝の歌」に取り組む学級もあります。
 気持ちを下げておいて、すぐに上げろというのはあまりにも理不尽。
 当然、高学年以上の朝の歌は、口パク状態になります。

●形だけの「朝の会」はいらない

 朝読書に取り組み、あいさつをし、歌を歌い、健康観察をし……、といった式次第に沿った形だけの「朝の会」はもういらないのではないでしょうか?
 大切なのは、脳を目覚めさせること。
 ちなみに、朝の会で子どもたちが一番嫌がっていたのが、「一分間スピーチ」というやつ。話すことがない、みんなの前で話すのはつらい、そんな理由で「一分間スピーチ」が自分に回ってきた日は学校を休むという子もいます。
 さて……、私の場合は、まずは教師による読み聞かせ。
 そして、教師と子どもたちの一斉雑談タイム。
 子どもたちに最近の出来事について質問したり、その答えにつっこんだりして、楽しく過ごすことに意図的に取り組んでいます。

●なぜに早く帰りたがる?

 最近の子どもたち(小学生)は、とにかく早く帰りたがります。
 しかし、学校が嫌で、早く帰りたいわけではないようなのです。
 理由は、「次があるから」です。
 それは、塾とか習い事の時間に間に合うため、といった単純なことではありません。
 塾や習い事があるのは当然。それまでの時間を有効に使いたいということらしいのです。
 今の子どもたちは、二重三重の生活をしているということ。すべて学校が中心というのは教師の思い込みです。
 そんな中で、日本の多くの教室では、ダラダラと帰りの準備や「帰りの会」をやっています。というわけで、子どもたちの中には、帰りの会が長い、というだけで、その担任に対して不満や不信を持つ子も少なくありません。

●「いいよ」で解決?

 「帰りの会」には、その日の一日で起こったトラブルを噴出させて、解決していこうというねらいがあるようです。しかしここでいくつかの疑問と問題。
 まず、子どもたちから出てくる複数のトラブルを、短い「帰りの会」で解決できると思っているのか?という疑問です。今の子どもたちのトラブルは複雑です。その背景には地域でのこと、家庭でのことなど、様々な事情があるのです。そういった問題について「ごめんね」「いいよ」で解決しようとしていることこそ問題ではないでしょうか?
 また、問題なのは、早く "帰りたい" のは子どもたちだけではないということ。
 教師の放課後も子どもたちと同様に忙しいのです。六時間目の授業が終わってから十五分後に会議、ということもめずらしくありません。十五分の中で、帰りのしたくをさせて、たくさんのトラブルがふきだす「帰りの会」を進め、翌日の連絡を済ませる、というのは到底無理なことなのです。それができているように見えることこそ問題でもあります。
 子どもたちのトラブルはもっと慎重に、時間をかけて指導していきましょう。形だけの「帰りの会」で解決しようとするのはもうやめにしましょう。

 今の日本の学校の「朝の会」は理不尽であり、「帰りの会」は危険なのです。

ご報告:授業づくりネットワークin帯広

遅まきながら、9,10,11日に参加した、授業づくりネットワークの帯広集会に講師に参加させてもらったことについて感想を書いてみたいと思います。

○6分間トーク
16人の講師が、くじ引きで順番を決めて、6分間トークをするという取り組み。休憩をはさんで、8人ずつトークしました。私は「九番」を引きました。休憩あけだったので、私としてはやりやすい順番。ただ、この研究団体に参加している人たちの学習要求がよくわかっていなかったので、何を話して良いのか、直前までわからず。さらには、自分が話したことを同時に "ファシグラ" でグラフィック化されてしまうので、軽率なことは言えない。しかたなく、前日遅くまでかけて、現場の苦悩を詩に書いて、それを朗読しました。なぜか、たくさん笑ってもらえたのですが、笑うツボが全生研とは違っていたので、少しとまどいました。

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○ポスターセッション
16人の6分間トークは16枚の模造紙にグラフィック化されています。それを広い会場に立てかけて、講師はその前に立ってポスターセッションをするというもの。参加者は、10分程度を目安として移動します。「カリスマ」「名人」と言われている講師の前には、山のように人が集まっていましたが、私のところには5,6名でした。(笑)

○選択セッション
1時間45分の講座・ワークショップと、30分の対談。講座・ワークショップでは、授業あそびのワークショップをしました。ただ、4,5名の学習班を組んでのワークショップを行うのですが、参加者は8名。二つの学習班しか組むことができず、ちょっと残念。

対談では、「人生のターニングポイントは?」などと聞かれて、ほとんどまともに答えられませんでした。

○鼎談
3人で一つのテーマについて語り合うというもの。私たちに与えられたテーマは、「みんなでつくる職員室」。私は、公的なチームワークと、私的なチームワークを意識することが大切であることを話しました。たとえば、学級がうまくいかなくなってしまったとき、学年の先生や先輩からは学べることはあるけれど、癒されるのは同世代の仲間とのおしゃべりであること、などです。俵原先生と、佐々木先生のトークがとても上手で説得力があって、さすがだなぁと思いました。

○自分で参加した選択セッション
自分が講座をやらない日に、俵原正仁先生の講座を受けました。刺激的なネタが次々と披露され、楽しくてあっと言う間に時間が過ぎました。たとえば、こんなネタ。次の漢字の訓読みは?(これは訓読みではなく「字義」だという説もあり)

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答えは、
「骨と皮とがはなれる音」

ただ、自分が指名されるのではないかとドキドキする場面が何度もあって、恐かったです。(笑)

○OST
最後に参加者全員が参加し、2日間の学習を振り返る、OST。最初に「金魚鉢」といって、参加者全員が輪になって、まん中にマイクが置いてあり、16名の講師が次々とマイクをとってメッセージを語るというもの。私は、話したくなかったのと、出るタイミングを逸したので、参加しませんでした。まあ、参加しない権利もあるかな?と……。感じ悪かったと思います。申し訳ない。

次に、自分で学んだことや感想をA4の紙にマジックで書いてウロウロ。同じ話題で話ができそうな人を選んで、その場でトークをするというもの。ファシリテーターの先生が、"無理に参加しなくでも大丈夫です"、と強調されていたことが、さすがだと……。

○その他
とにかく、刺激的で楽しかった!というのが私の感想。全生研が見ているものをこの研究団体は見ていないけど、逆に、全生研が見ていないことを見ているということ。それは、どちらが正しいという問題ではないということ。

帯広の屋台で、実践には思想性が大切だということを語っておられた先生がいました。ある意味、その通りだと思いました。

ここに参加する先生の多くが、名刺を持っていたとにびっくり。講師の方はもちろん、一般参加者の方たちが持っているのです。これは、全生研の大会ではなかったこと。それだけ、つながりを大切にしているのかもしれないと思いました。なにしろ、「ネットワーク」ということばが団体名称につくのですから。

主催者のみなさん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

学校珍百景:「おしゃべりをしている人が三人いました」という脅し

●子どもたちにつっこまれる、指導とは言えない「投げかけ」

 朝会でよく見る場面。
 全校児童が体育館に座った状態。そして、いよいよ校長先生がステージに上がるので、
「はい!みなさん、口を結んで立ちましょう!」
と司会の先生が指示。しかし次の瞬間、
「ざんね〜ん。おしゃべりをしてしまった人が三人いました。もう一度座って、やり直しましょう。」
とやります。そんな時、高学年の子はこうつぶやくのです。
「三人?数えたのかよ」
 確かに「三人」と言っても、数えていないことは明らか。高学年にもなれば、そういったことはすぐにわかってしまいます。子どもたちに "つっこみ" を受けてしまう子どもたちへの「投げかけ」。どうして、こんな「投げかけ」をしてしまうのでしょうか?」

●子どもたちとのすれ違い

 「おしゃべりをしている人が三人いました」という「手法?」を利用する人は、次のような「ねらいと効果」があると考えいるようです。
1.「口を結んで立つ」ということは、全員が一斉に守らなければならない指示であるということを子どもたちに伝えたい。
2.そのルールを一人でも守らなければ、全員が「やり直し」という、ある種の「罰」をうけなければならない。
3.ルールを守らなかった者を「三人」という具体的な数字を示すことで、この指示はリアルであり、自分は一人ひとりを監視しているぞ、というメッセージを伝える。
4.子どもたちはその三人は「自分ではない」ということを示すために、二度目の時には、おしゃべりをしないように注意するだろうという「効果」を期待している。
 このように考えると、「おしゃべりをしている人が三人いました」という手法は、連帯責任をベースにした集団行動訓練の一つであると言うことがわかってきす。
 しかし、そういった教師の思惑に対して、子どもたちは次のように考えます。
1.たとえば、朝会には個人として参加しているのであって、集団行動の場としてとらえていない。
2.したがって、自分とは違う者の「ミス」により、ミスをしていない自分も含めた多くの者が「やり直し」という「罰」を受けることに納得できない。
3.ましてや、到底数えていないであろう「三人」という数字を出すことで自分たちを動かそうとする教師のズルさに対して異議申し立てをしている。
 朝会のような学校行事は、ある時期から学習指導要領で明確に「儀式的行事」として位置づけられ、見栄えの良い集団行動がより求められるようになりました。そのために教師は、こうした連帯責任と「脅し(おどし)」によって子どもたちを動かそうとしています。そしてそれに対して子どもたちは明確な異議申し立てをしているという図式です。

●連帯責任と脅し

 たとえば「朝会」のような場でおしゃべりをしないことを、有無も言わせない集団行動として教えるのか、それともマナーとして教えるのかという問題について、現場は再度検討する必要があるように思います。
 たとえば、一斉にお辞儀をさせるのは、集団行動であってマナーではありません。それをマナーであると勘違いして指導すると「管理主義」に陥ります。一斉におじぎをさせるのは、集団行動を教えているだけであって、その一人ひとりの気持ちまで動かしているわけではないことをもっと割り切るべきです。
 つまり、マナーは心の問題、気持ちの問題ですので、指導する必要はありますが強制はできません。ましてや脅しでその行動を定めることはできないのです。
 朝会で、静かに起立するのは、集団行動として教えるのではなく、マナーとして指導するべきです。そのためには、その意味をもっと子どもたちに説くべきです。そしてそれについて子どもたちに返し、子どもたち同士で考えさせるべきです。一斉の場でそれができないのであれば、各学級でその指導がなされるべきです。
 繰り返しますが、「三人います」というのは、やわらかく言っているようで、これはある種の「脅し」です。なぜなら、おしゃべりをしているのはオマエだろ、ちゃんと見ているぞ!とせまっているのですから。
 こうした手法をよく使う人は、自分は「脅し」て子どもたちを動かそうとしていることにもう少し自覚的であってもよいと考えています。

夏休みのしおちゃんマン講座

わっ!

あっという間に、夏休みも後半に……。しかも、今週末は組合の全国教研だ。これも二泊三日。

ちなみに、この夏休み、依頼されている講座はあと二つ。

(1) 学校体育研究同志会 第22回 東京支部研究大会の20日、午後16:30〜18:00までの特別講座。
場所:明星学園小学校・中学・高等学校(JR吉祥寺駅、三鷹駅が最寄り:当日は吉祥寺周辺は渋滞するので、三鷹駅からのシャトルバスがお薦め)
後援:三鷹市教育委員会(休暇をとらずに、承認研修でいくことが可能です)
[特別講座(16時半〜18時まで)]
◎生活指導:塩崎義明先生(全国生活指導研究協議会)
「子どもたちや保護者と共に悩むことのできる学級集団づくり」
くわしくは、こちら

(2) センたまNET☆「秋の学習会」(9/1)
と き:9月1日(日)
13:30〜16:00
(学習60分、交流60分程度)
ところ:豊島区民センター第1会議室
(池袋東口徒歩5分)
『現場は実際どうなの?-先生って何を大切に授業をしているの?-』
しゅさい:全教青年部

よろしかったら、ご参加下さい。

ワークショップの危険性

私も最近よく、授業あそびのワークショップをやるのですが、こういったワークショップ型の学習会や講座……、さらには、子どもを対象としたエンカウンターなどは、以下の点に注意したいものです。

そもそもワークショップというのは、その活動・体験に参加していくように仕向ける "しかけ" がしてあります。したがって、ある種の「参加の強制」(参加しなければならないという空気)を生み出してしまう危険があるわけです。

たとえば、「自由なタイミングで入ってきてください」という指示があったとします。これは、「自由」という言葉を使ってはいますが、結局は「入ること」を前提とした指示だということです。つまり、自由という言葉を使った強制。これを拒否するのは至難の業。

ワークショップをやる時には必ず、参加しないことや活動を拒否する権利があることを事前に参加者に伝える必要があることに最近気づいたのです。

ちなみに、指導というのは、拒否する権利が常に伴うという、難しい課題があります。同時に、指導する側に、その権利を停止させることができるのか?というテーマもあります。今、全生研で話題になっているテーマなので、もう少し学んで、整理できたら自分なりに提起してみたいです。

学校珍百景:「私は体罰をしましたか?」と担任が子どもにアンケート

●説明責任のためのアンケート
 少し前に日本中で問題・話題になった「体罰問題」。
 本県でも、体罰をなくすことを目的として、子どもたちにアンケートが実施されました。
 ところがなんと、そのアンケートを配布し、書き方を指導し、回収したのは、学級担任でした。つまり、子どもたちから見ると、学級担任自身が、
「私は体罰をしましたか?」
というアンケートをとったことになります。
 私は、話し合いの場を飛び越えて、 "アンケート" という機械的な形をとることに反対です。しかも、体罰アンケートにいたっては、その内容から、教師と子どもたちとの関係を悪化させる危険があります。百歩譲って実施するにしても、担任自身がアンケートをとるといった方法については、あいた口がふさがりません。いったいなんのために、子どもたちにアンケートをとっているのでしょうか?「現場にアンケートをとらせました。その上で体罰問題が起こるのは現場の責任です」という、教育委員会の責任回避と説明責任を果たすためだけにやっているとしか思えません。
 子どもたちはこういった大人の茶番を見抜いています。だからわざと、
「はい、いつも体罰を受けています」
と書く子も少なくありません。
 また、日常的にも教師に叱られそうになると、
「体罰アンケートに書きますよ」
などとニヤリとする子も出てきました。
 そもそも、アンケートをとっています!ということが説明責任になると本気で思っているのでしょうか?そして実際に体罰問題が起きた時にも、アンケートはとったのですが……、などという言い訳が通用すると思っているのでしょうか?

●いじめ問題はアンケートでは把握できない
 「いじめアンケート」についても同様です。
 いじめ問題のほとんどが、子どもたちの私的な関係(グループ内関係)において発生しているわけですが、子どもたちがそういった関係を、アンケートという公的な取り組みに持ち出してくれるのか?という疑問があります。
 いじめ問題について、教師が知るきっかけは次の通りです。
・保護者からの連絡。
・他の子どもたちからの情報。
・教師自身が、本人の表情や行動の変化に気づいて本人に確認。
 いじめ問題がなかなか教師に届かない、気づかないのは、上記のルートが梗塞状態になっているからだと考えられます。そんな状態の中で、アンケートでつかめるはずがないということです。
 本気でいじめ問題を解決するつもりであるならば、教師と子どもたち、子どもたち同士、教師と保護者の関係をもっと風通しをよくすること。そのために、教師の数を増やしたり、到底必要とは思えないアンケートの回収や集計に時間をとらせることをやめて、子どもたちと雑談できるゆるやかな時間を学校現場に取り戻すこと、そのために予算を使うことです。

●日常的に子どもたちの声を聞くために
 日常的に子どもたちの声を聞き、たとえばいじめ問題などを事前に把握するためには、先に書いたように、現場にゆったりとした時間を取り戻すことが行政が第一にやるべきこと。
 では、教育技術的にはどういったことが考えられるでしょうか。
 まずは、アンケートをとったから子どもたちの声を聞くことができているといった勘違いをしないことが大切です。ましてや、それで教師自身の責任が果たせたと絶対に考えないことです。
 二つ目は、日記や教師との通信ノートを利用して、日常的に子どもたちとのパイプをつくっておくことです。最近特に多忙化が増し、子どもたちに日記を書かせる教師が少なくなってきたように思います。日記はその日のことを書くだけでなく、その行間から、その時期の子どもたちの思いや声も読み取ることができるはずです。もう一度、「書かせる」ことを見直
してみましょう。
 そして三つ目は、休み時間は、子どもたちと一緒にいることを基本にするということです。確かに、職員室に戻り、気分転換することも大切なことです。また、休み時間でなければできない、マルつけや集金事務、週案の記録などもあるかと思います。しかし、一定の時期だけでもいいので、子どもと一緒にいることを基本にしてみてはいかがでしょうか。そしてそのことが楽しくてしかたがない、といった学校現場にしていきたいものです。(塩)

幕府の場所

数日間京都で過ごしていて、ふと気になったことがありました。それは、「室町幕府って、どこにあったんだろう??」ということ。

幕府というのは、武家政権そのものを指すと同時に、征夷大将軍が住んでいた場所という意味もあったはず。とすると、足利将軍はどこに住んでいたのかな?と。

江戸幕府ならば、今の皇居。では、室町幕府は?そして、鎌倉幕府は?

気になったのですぐに調べてみました。

室町幕府は、義満の時代は "花の御所"。現在は、臨済宗の大聖寺門跡という寺院が建っている所。地図で言えば、現在の京都御所の北西のすぐそばだそうです。さらに詳しく調べてみると、下記のようになります。

足利尊氏→二条高倉
足利義詮→三条坊門
足利義満→花の御所
4〜5代→三条坊門
6代〜8代→花の御所
9〜12代→居城なし
13代→二条城(平安女学院の辺り)
14代→居城なし
15代→二条城(上と同じ場所だが、新築)

なお、室町幕府は9代以降は政治を取れる力が無くなり、各地を転々としていますので、政庁は無いのと同じだということでした。

そして、鎌倉幕府ですが、実はこの時期には「幕府」という概念がはっきりしていたわけではないらしいのです。ということで、頼朝が最初に住んだという意味で、大蔵の地があげられます。詳しく調べてみると、

源氏三代→大蔵
北条泰時→宇都宮稲荷神社
その後〜滅びるまで→若宮大路

ということになります。

やりたいことがやれる現場に!

夏休み期間中は、様々な研修会や研究会に参加する先生方が多いです。そしてそこで、「ぜひ自分でもやってみたい」「取り入れてみたい」と思える教育方法や教育内容に出会うことができます。

ところが、いざ、現場に戻ってしまうと、なかなかそれができない。そういった経験はありませんか?おそらくそういった経験を多くの先生がしているのではないでしょうか。なぜでしょうか?なぜ現場に戻ると活用できなくなってしまうのでしょうか?

一つは、忙しくてそれどころではなくなるということ。このことについてはこのブログでも何度も書いてきたので繰り返しませんが、多くの方に知ってほしいのは、学校現場には、教師がやってみたいこともできないほどわけのわからない忙しさであるということです。

二つ目は、学校現場というのは、横並びを強いる現場であるということです。やってみたい実践、とりいれてみたい実践があっても、まわりとの関係で自己規制してしまう……。

三つ目は、学校というのは、報告を強いる、管理支配型の現場であるということです。授業の一つひとつについて、何か新しいことに取り組む時には必ず「上」に報告しなければならない社会であるということ。

さて、これらのハードルを超えて、子どもたちのために、様々なアイデア・工夫を現場に取り入れていくためにはどうしたらよいのでしょうか?

一つは、研修や研究会で学んだ時に、それは現場でできることなのか、実行するためにはどのようなことが大切なのかを納得するまで聞いてくること。講師の先生もきっと同じような壁につきあたったはず。それをどう乗りこえて、すごい実践ができているのかこそ、聞いてくるべきだと思います。

二つ目は、学んできたことを積極的に現場の仲間に話をすること。自分だけの財産にしないということです。これは仲間だけでなく、管理職の先生にも話をしてみたらどうでしょうか?

そして三つ目は、講師の先生と同じ結果を求めないということ。そして同じ結果が出なくても、失敗だと考えないこと。そして自分流の新しい方法を開発してみること。

以上、お試し下さい。

ほめることが響く位置に!

(起)σ 子どもに「共感しなければならない」というのは、かなり上から目線ですよね。一緒に生活し、悩み、考えていくことが大切なわけで、そんな中で子どもの思いが見えてくることもあるし、逆に、思いがわからずに腹が立つこともある。それが大切なのでは?と。

(承)σ 「共感しなければならない」などと真っ正面に向き合ってしまうから、見えなければならないことも見えなくなってしまう。子どもが無理して「良い子」でいることも「すばらしい!」と勘違いな評価をしてしまう。

(転)σ ほめることが大切だとよく言われますが、教師はどの位置からほめているのかが大切なわけで、エラソーなところからほめても子どもたちには響かない。苦笑いされて終わっていることに教師は時々目を向けてほしい。

(結)σ ほめることが大切なのではなくて、思わずほめてしまう位置にいることが大切だと思うわけです。

明日から帯広

明日から、『授業づくりネットワーク』の帯広大会に出かけます。講師として招待していただきました。

他団体は初めて……、と言いたいところですが、『授業づくりネットワーク』については、何年か前に成蹊大学で集会があった時に講師として参加したことがあります。

その時は、学級崩壊をどうするか?というテーマで話をしたと思うのですが、きっと団体によって学習の要求が違うのでしょう……、ずいぶんと反応が悪かったことを覚えています。みなさんポカンとした顔で、"どうしてそんなことするんだろう??" という顔をしていました。今回も実は、そういったことになる(ポカンとした顔をされる)ことを覚悟しています。参加者のみなさんには申し訳ないのですが、私は、私が話せることしか話せないということです。

ではどうして講師を承諾したのか。

ひとつは、いわゆる「カリスマ」とか「名人」とか言われている人たちがたくさん参加してくれるので、そういった人たちがどんな話をするのか、とても興味があること。

もうひとつは、他の団体の研究会に出ることで刺激をもらいたいということ。どのように組織しているのか、何を魅力にしているのかを学びたいということ。

いろいろな意味で、楽しみにしています。

全生研大会を終えて

京都での全生研大会を終えました。

久しぶりに、1000名を超える大集会になりました。

今の時代、民間教育団体の集会で、1000名を超えるのは凄いことです。あらためて、全国から参加された皆さんにお礼を述べるとともに、大変な準備を続けてこられた京都の仲間に感謝したいと思います。

さて、こういった団体とのつきあいかたですか、自分が悩んでいて、それを解決してもらったり、元気をもらったりするために参加、そして、その目的が果たせたら参加しなくなる……、といったつきあいかたが多いようです。

特に若い皆さんには、そうではなく、ぜひとも地元のサークルに日常的に参加して、皆さんや子どもたちを追いつめている今の日本の教育を変えていく先頭に立ってほしいと願っています。

今大会では若い力をあちこちでみました。すでに私なんかよりも豊かな発想力とリーダーシップを持っている若者たちにも出会うことができました。何か…、寂しくなるほどの世代交代の時期をかんじました。

日本の教育はまだまだ大丈夫です。

学校珍百景:ハンドサインは無理

『ハンドサインは無理』

●授業での「ハンドサイン」

 授業での「ハンドサイン」と聞いて、ピンとこない人は次の説明を読めば「ああ、あのことか!」「自分自身も小学校の時に経験がある」と思う人が多いのではないでしょうか?また、教師の皆さんはこの方法を取り入れている人も少なくないのではないのだと思います。ハンドサインには色々な方法があるのですが、その例としては、たとえばこういうこと。
一、教師が子どもたちに発問する。
二、その発問に対して一人の子が発表する。教師はその発表の後に「どうですか」と、さらに子どもたちに問う。
三、子どもたちは教師の「どうですか?」に対して、たとえば次のようなハンドサインで挙手する。
  グー……「賛成です。(同じです。)」
  チョキ…「反対です。(違う意見です。)」
  パー……「つけたしです。」
四、そのハンドサインを見て、教師や、最初に発表した子が次の者を指名し、それを繰り返しながら話し合いを続ける。
 仲間の意見を聞き、それに応えて意思表示をする力を養うことを目的とした教育技術です。
 教師の発問や言葉は必要最小限にして、子ども達にたくさん話させたり活動させたりするのにもこの方法は有効だそうです。

●自分には無理だったハンドサイン
 かなり前になりますが、このハンドサインを使った「すごい授業」を参観したことがあります。
 教師の発問に対して、全員が挙手。最初に答えた子が、仲間のハンドサインを見ながら指名。それが繰り返され、かなりの人数まで子どもたち同士の指名が続きます。その間、教師は何も話しません。やがて、その話題が終わり、最後になった子どもが言いました。
「先生に返します。」
 これはスゴイ!自分もこんな授業ができたら……、とあこがれました。
 さっそく私の学級でも、ハンドサインと子どもたち同士が指名する方法にチャレンジしました。しかし、私にはできませんでした。その後、何度かチャレンジしたのですが、何度チャレンジしても私のクラスには、とうとうこの方法は定着しなかったのです。なぜか……。
 定着しなかった一つ目の理由は、子どもたちの考えは「賛成」「反対」「つけたし」といった三つの種類には分けられなかったということです。たとえば、「全体的には賛成だが一部については反対」「賛成としての(反対としての)つけたし」「自分の考えをまとめるためのとりあえずの質問」「賛成を(反対を)のべるための質問」……エトセトラ、子どもの考えにはあらゆる種類があるということです。また、子どもたちは、あらかじめ決められた枠内で自分はなんのサインを出すべきなのかを考え始めるので、リズム良く授業・発表が続かなかったということです。
 二つ目の理由は、子ども同士で指名する場合、話し合いの中身を深めることよりも、人間関係をはかってしまう、ということです。たとえば仲の良い子ばかり指名する、反対意見の子はさける、逆に、苦手な子の意見に対しては挙手しない等々、内容とは違ったところで力関係がはたらいたということです。この傾向は、最近ますます強くなっています。
 三つ目は、子ども一人ひとりに、自分の考えを整理し、まとめる時間を保障するタイミングがないということです。自分の意見をまとめているうちに、全体の話がどんどん進んでいってしまうことの方が多いので、結局、よくできる子中心の授業になってしまったということです。

●リズムと保障
 私が授業で大切にしているのは、まずは全体のリズムです。子どもたちが楽しく、しかも心地よいリズムで発言のやりとりができるように、まずは教師が子どもの意見に対してどのように応答するのかを見せていくことを大切にしています。実はこのことが、教師と子どもたちとの「関係づくり」においても大切なことなのですが、ここでは詳しく述べません。
 二つ目に大切にしているのは、授業の流れにのれない子の意見をどう保障するのかということです。そのために必ず授業の中に「学習班会議」を取り入れます。そしてその中で、発言が苦手な子でも、自分の意見を持つことを保障していくのです。やがてそういった子も全体の前で発言ができるようになります。
 ハンドサインは、私が授業において大切にしたいこととぶつかってしまうことが多かったということのようです。

学校珍百景:「走りません!」

「走りません!」

●次の行動を期待する言い方
 廊下を子どもたちが全力で走ってきます。
 教師は両手を広げて子どもたちの突進を止めて叫びます。
「走りません!」
 んっ?走っているのは、子どもたちだぞ。
 どうして教師が、「走りません!」と自分は走らないことを宣言しているんだ?
 学校関係者でない方はきっとそう思うに違いありません。この日本語は変だぞ?と。
 これと同じ用法で、
「危険です。すべりません!」
というポスターの言葉があります。
 私は一瞬、「危険です。すべります」の間違いだと思ったのですが、そのポスターが貼ってある場所を見てナルホドと思いました。
 どこに貼ってあったかわかりますか?
 そのポスターは、階段の手すりに貼ってあったのです。つまり、
「手すりは危険なのですべるな!」
という意味です。
 「走るな!」を「走りません!」、「すべるな」を「すべりません!」というような言い方は、その子の次の行動を、 "言う側" が決めてしまっている言い方です。つまり「あなたはもう走らない子なんだ」というメッセージを一方的に発信しているわけです。
 これは、催眠術で、「あなたは眠くなる〜」というのがありますが、そのような使い方に似ています。

●言い(効)かせる
 「言いきかせる」の正しい表記は、「言い聞かせる」です。意味としては、「よくわかるように教え諭す。」です。
 「走りません!」のように、「あなたはもう走らない」という言葉を発信することだけで、その子が走らなくなることを期待するという考え方は、ある意味「言霊」に近いのかもしれません。そこには、走ってはいけないことを "教え諭す" という世界は見えてきません。
 そういった意味では、「言い聞かせる」ではなく、「言い効かせる」という表記を使った方が良いのかもしれません。
 では、学校現場にどうしてこのような言い方が広がるのでしょうか?
 一つは、日本の学校に、教師が子どもたちに一方的に伝えることが「指導」だと考えられてきた歴史があるということです。つまり、多数の子どもたちに、 "一斉に「言い聞かせる(効かせる)」手法" が日本の教育・指導の伝統だったということです。
 たとえば、教室での子どもたちの机の並び方を思い出してみましょう。そのほとんどが、一斉に黒板の方を向いていることがほとんどです。この並び方が「基本」とされているところに、日本の教育・指導の伝統が見えてくるのです。
 二つ目は、たとえば教師が発した「言葉」(情報)は「正義・正論」であるという考え方があるということです。さらには、教師が発した「言葉」(情報)は必ず子どもたちに伝わるものであり、伝わらなければならないと考えているということです。もっと言えば、教師が発した「言葉」(情報)伝わらない時や子どもたちが受け入れない時は、その子が「悪い・低い」という評価を受ける場合がほとんどであるということです。
 三つ目は、日本の教育に「自治の力を育てる」という研究が軽視されてきたということです。もちろんそういった研究をしている団体もいくつかありますが、残念ながらその指導や研究は大きなうねりや広がりには、いまだなってはいません。

●子どもたち自身が「生み出す」ということ
 「指導」とは、教師が情報や価値を一方的に伝えることだけではありません。また、教師が語る「正義・正論」は正しいことが多いのだとは思いますが、それを武器にして振りかざし、子どもたちに一方的に押し付けることには賛成できません。
 さらには、教師が語る「正義・正論」が子どもたちに伝わらないからといって、それを子どもたちのせいにすることについても大いに疑問です。
 そんな時にこそ(子どもたちに否定された時にこそ)、その「正義・正論」が、子どもたちにとって本当に「正義・正論」であるのか?の検討がなされるべきです。つまり、「正義・正論」は、教師が一方的に押し付けるのではなく、子どもたちの中で揉まれて検討され、生み出されるものてなければなりません。そしてそれを導きだすのが指導であり、育てられてそこにいく力が「自治の力」だったはずなのです。

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雑誌『生活指導』(高文研)編集長/全国生活指導研究協議会常任委員/最新著書『教師と子どものための働き方改革』(学事出版)/小学校で37年間学級担任として勤務/現在某私立大学文学部教育学科特任教授/iPhone12 Pro/Surface Laptop3/黒猫大好き/手相は両手とも「ますかけ」。

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ヨシムネ&ねね

しおちゃんマンの飼い猫、黒猫ヨシムネと ねね

ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

ねね
ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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