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意見を言う!

学校現場で意見を述べる職員が減ってきている。まったく意見が出ない職員会議がずっと続く学校もある。たまに意見を言っても、自分の感想を述べるだけで、提案や他者の意見に対して、反対したり賛成したりの意見を述べることはない。

現場が意見を述べなくなった原因は、
1)学校現場に上下関係が強くなった。「上」の立場の言うことが絶対。
2)教育の質よりも人間関係重視。
3)意見を述べる会ではなく報告会・連絡会が前提の学校現場。

対等に意見が言い合えない集団は、その質が落ちるだけ。学校現場の質が落ちるということは、教育の質が落ちるということ。教師の力量も落ち、子どもたちに十分な教育ができなくなるということ。

意見を言われる側は、自分が否定されたととらえるのも困ったもの。簡単な意見を言っただけで、しばらく口をきいてくれなかったり、逆に、不自然に下手(したて)に出てきたりするのもやっかいだ。

意見を述べ合ったあと、たとえそれが感情的なものになってしまっても(そうはならないように建設的な意見を述べるように心がけることはもちろん)、その時はその時で、それが終わったら、あとはすっきり、といった会議のマナーを教師は学ぶべき。

意見が出る現場は雰囲気が悪い、といった間違った概念は捨てるべき。いつもニコニコしていて何も言わない集団の方が気味が悪い。

ちなみに私は、自分の意見とは違ったことに決まっても、決まったことに従うスタンスである。

やなせたかしさんが亡くなりました

アンパンマンのやなせたかしさんが亡くなりました。

実は、しおちゃんマンのキャラクターデザインとストーリー設定は、アンパンマンを参考にさせていただいていました。

しおちゃんマンのボディーは、アンパンマンです。顔はウルトラマンですが……。

関係のキャラクターをたくさん生み出していくことも、アンパンマンをまねています。

※しおちゃんマンワールドは、こちら

94歳だったそうです。本当に多くの子どもたちに、いや、日本の人たちに大きな大きな影響を与えてくれた方だったと思います。

"本当の正義というものは、決して恰好のいいものでは無いし、そしてそのために必ず自分自身も深く傷付くものです。"
"声高に叫ぶものは正義じゃない。ひもじい者に黙って食べさせるのが正義だ"
by やなせたかし

ご冥福をお祈りいたします。

名人ではなく名物に

あなた流の話し方○○節をつくれだとか、得意技で子どもたちを引きつけろだとか、教師はやはり授業で勝負しろだとか、いろいろウルサイ。そんな話はますます教師たちを追いつめるだけ。

教師の生き方に "正義正論" を振りかざすべきではない。そのように生きられない事情を一緒になって考えるべき。さらには、それが本当に正義正論なのか、批判的に検討してみる必要もある。

さらに教師は、失敗ばかりの自分をもっと許さなければならない。そして、目指していた "成功" が、本当に目指すべきものなのかも考え直すべき。

教師にカリスマや名人はいらない。子どもの前に、変な自信を持って立てなくても、社会の生きづらさを子どもたちと共有できる教師でありたいと思う。

朝日新聞の「花まる先生」の取材は断った。自分は花まるではないし、それを目指しているのでもない。若い人たちにも、"花まる" な教師になってほしいとも思わない。花まるな教師には、花まるな子どもしかついてこない。

支配的な正義正論を振りかざして子どもの前に立つのはよそう。そんな子どもたちとの関係を一度壊して、子どもたちとの新しい関係を創り直してみよう。そして、誰もが認める名人ではなく、かげで『名物』といわれる個性的な教師になろう!

挨拶と距離感

今の子どもたちは挨拶ができません。校門で校長の方から挨拶しても無視して通り過ぎる子も少なくありません。見ていて逆に気を遣うほどです。

こういった現状で、強引に挨拶を教え込むと過剰に挨拶をする子が増えてきます。たとえば廊下ですれ違うたびに挨拶をする子が出てきます。さっき会っただろ!って、つっこみを入れたくなるしつこさで挨拶をしてきます。

どうしてこんなちぐはぐなことが起こって来るのでしょうか?しかし子どもたちが挨拶ができないことに対して、それを保護者のしつけのせいにしたり、学校の指導の甘さのせいにしたりするのは間違いだと思っています。

最近の子どもたちが挨拶できないのは、子どもたちにコミュニケーションの距離感を指導していないからだと考えています。または、子どもたちが日常において挨拶のできる距離感を学んでいないからです。

たとえば、親密すぎる関係において、あらためて挨拶するのは照れくさくありませんか?逆に全くつきあいがない人に挨拶するのは、していいのか悪いのかわからなくなることはありませんか?そういった距離感があって、しかし挨拶はそんな距離感を超えてしまうものだということを教えていない……。

こう考えていくと、挨拶はそのことだけの問題ではないことがわかってきます。教師と子どもたち、親子関係、地域での大人たちとの関係……、それぞれの距離感をマナーとして学んでいく環境が今の子どもたちには希薄です。

教師と子どもたちとの距離感は、場面に応じて近くしたり遠くしたりの技術が必要。それを私は、"間合い" と呼んでいます。挨拶について考えるならば、挨拶ができる "間合い" を考えなければならないということ。顔を近づければ挨拶を返してくれるという問題ではないということです。

漢字慣用句トランプを使って

「たのしい授業」編集委員会編の「たのしい授業プラン 国語 2」(仮説社)を参考にさせてもらって、漢字慣用句トランプを利用して学習参観を展開してみました。

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トランプで表現されている慣用句を当てたり、意味を考えたり、その体験を交流したりします。

それをしおちゃんマン流にアレンジしました。つまり、それらを班対抗のゲームにしたり、早押しボタンを使って、一対一の対決にしたりしてみました。

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サッカーとミニバスの応援

土曜日は、市内サッカー大会予選と、市内ミニバスケット大会決勝トーナメントの応援に行きました。

午前中はサッカー。本校のブロックは強い学校が集まっていて心配されていましたが、見事予選を1位通過しました。教室ではなかなか見られない、子どもたちの真剣な表情が見られて良かったです。今週の土曜日が決勝トーナメントです。

11:00からは、総合体育館に移動して、ミニバスケット大会の決勝トーナメントの応援。今年のチームは、予選を通過しても、決勝トーナメントではいつも1回戦負けでした。しかし今回はまずは見事に1回戦突破。準決勝では、春からなかなか勝てなかった学校に僅差で勝利。うれしさで泣き出す子どもたちや保護者のみなさん。私も感動しました。決勝戦では実力差のある学校に負けてしまいましたが、見事に準優勝!!おめでとう!!!

小学校の部活動の指導は本当に大変です。早朝や放課後、土日も含めて毎日練習があり、担任をしている職員が指導している学校がほとんどです。社会体育に移行しても、やはり学校の職員が指導しなければならない学校がほとんどであるのが現状。指導してくれている職員には、申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいです。

そして同時に…、あんなにすてきな表情を見せてくれる子どもたちのためにも、もう少し活動環境、指導環境を整えなければならないのではないかと思いました。

子どもたちに癒される純粋な関係を取り戻したい

いくつもの重要なことが同時間に押し寄せてくる。すべてこなしているようで、実はすべて中途半端。

乗りこえたなんて思えない。ただ時間が流れただけで、何もできていないのではないかという不安と恐怖。

そして案の定、細かなことでいくつかのことがこぼれていたり、やりのこしていたり……。それを一人で拾っていかなければならないという孤独感と焦燥感。

そんな中で次第に自分を失っていく教師たち。失ってしまった自分を発見する手段は、他者と比べるしかないのか……。結局は、他者と比べて、できない自分を責めることになるのはわかっているのに。

今大切なことは、仕事をこなすことではなく、自分を他者と比べることでもなく……。子どもたちに癒される純粋な関係を取り戻すこと。

そしてそのためには何を大切とするのかという問題。

その答えは………

老眼鏡が壊れて

いきなり、老眼鏡のフレームが折れてしまいました。

何もしていない、ぶつけてもいない、ただ、かけていただけなのに、いきなり折れました。気味が悪いです。

ということで、何もできない状態。

この文章を書くのにも、普通の眼鏡をはずしてち、顔を画面に極端に近づけてキーボードを打っています。

ということで、しばらく長文は書けません。

困った……。

学級集団づくりは学校づくりに拓く

学級集団づくりは、常に学校づくりとの関係において展開されます。

自分の学級だけ、良い学級にするために集団づくりをするわけではありません。もしそう見えたとしても、それは偽りの「良い」学級です。

隣の学級がうまくいってなかったら、協同して取り組んでいくのが、学級集団づくりです。学級集団づくりは、学級の指導であって、学級だけの指導ではないのです。

このことは、学年や全校の子ども集団に意図的にひらいていくということだけではありません。指導を受ける子どもたちは、常に全校から影響を受けているし、その成長は学年や全校に影響を与えるということでもあります。

集団づくりを実践する教師は、悩み、傷ついた職員の視線で現場を見ます。そういったスタンスに立つことが集団づくりのスタンスであるからです。

自分の学級だけ良い学級に育てようとするのは、集団づくりではありません。それは、単に学級経営をしているだけだということです。

続・ブラックな忙しさ

多忙感というのは、人によって違うようです。私にとってブラックな忙しさでも、他の人にとってはホワイト感が(大切で、充実できる仕事)ある場合もある……。

いや、教師の仕事をブラックorホワイトと分けること自体が間違いで、どれもこれもやらなければならないものだと真摯に考えている人もいます。

たとえばですが……、"現行の" 週案による授業時数報告など、私にとっては説明責任のため以外なにものでもないのです。今の週案報告でどれだけ正確な授業時数が報告されているのでしょうか?

いや、そもそも授業時数で教育活動を見るということ自体がおかしいとさえ私は考えています。教育活動は数字で整理・報告できるものではない。ゆえに、週案を書かされるのは私にとってはブラックな忙しさなのです。(しかし私は提出しています。もちろん矛盾を感じながら)

しかしそうではないと考える人もいます。週案によって自分の教育活動が計画化され、力量を高め、そしていざという時に自分を守ってくれることもある。そういった人たちにとっては、週案報告は当たり前であるしブラックな仕事だ、などということ自体がおかしいと考えます。

つまり、人によって仕事の中身をどう価値づけているのかが違うということ。そうなってくると、その人がどこに多忙感を感じるのかも当然違ってきます。

しかし現場では、何人もの教師が精神的な疾患で悩み、年度途中でも退職し、場合によっては命を落とす仲間もいることは事実なのです。ゆえに、子どもたちの指導にもっと時間をかけることのできる現場環境を望むことは間違いではないと思っています。

そのためにはやはり、丁寧な合意が大切。自分にとって価値があると考えている取り組みでも、他の人にとってはブラックな忙しさを感じているかもしれません。ゆえに取り組みの意義をみんなで丁寧に話し合い、合意をつくっていくことが求められているのだと思います。

教育活動とは、上に人の思いつきや都合で下の者が動く、といった単純なものではないということ。ただ最近ではそういった学校が多いようです。そのことでどれだけの教師が振り回され、子どもたちが苦しんでいるのかを考えなくてはなりません。

批判的学び

子どもたちが自分たちだけで細かなことまで気づいて行動するように指導していて、実際そうなったとしたらなぜか "薄気味悪さ" を感じる。

自治的な集団を育てる学級集団づくりを進めていて、子ども集団が自治的に行動し始めると、なぜか "嘘くささ" を感じる。

これは、拒否する権利、異議申し立てをする権利を指導していないからかもしれない。

指導は拒否されることを前提に進めなければならないのだけれど、"拒否すること" を拒否されないで教えるってどういうことなんだろうか?

おそらくそれは、批判的学びの実践なのだと思う。

まだまだ勉強不足だ……。

ブラックな多忙を乗りこえる

学校現場の忙しさには「ホワイトな多忙」と「ブラックな多忙」がある。どんなに忙しくても子どもたちの笑顔があったり楽しい授業を企画したり…、といった忙しさは苦痛でない。これは「ホワイトな多忙」。

「異常な忙しさ」という時は「ブラックな多忙」の方を指す。つまり理不尽な忙しさ。「これは教師の仕事ではないでしょ」とか「どうしてこんなことしなければならないの?」といった忙しさ。説明責任を果たすための忙しさ。アリバイづくりのような忙しさ。

子どもの指導がうまくいかない時、そのことを第一に考えたいのに、それ意外な理不尽な忙しさが襲ってくる。これはきつい。同僚に相談したくても、ブラックな多忙でそういった時間もないし、相手も忙しいだろうと遠慮してしまう。

また、良いことでも、職員に相談も無しにいきなり上から降りてくる取り組みはブラック。そういった取り組みは現場の状況をわかっていないものが多いので、この忙しさの中でどうしてそんなことを持ち込んで来るんだ?と感じる。

良いこと、大切なことで、職員の合意ができていたとしても、それを実施する環境…、たとえば人が足りないとかの場合、ブラックな多忙が生まれる。合意する時に、そういった環境にも十分論議しておく必要がある。

子どものに直接関わる内容を優先すること。職員の合意を丁寧に行うこと。現場に必要な人的環境を整えること。それがブラックな多忙からホワイトな多忙へと変えていく三つのキーワード。

間違えたら頭を下げよう

(起)σ 自分が間違いだとわかったら、相手が子どもであろうとなんであろうと、私は真摯に、そして大真面目に頭を下げます。人として当たり前だと思うし、そのことを子どもたちに教えたいと思うからです。

(承)σ 教師は、子どもに頭を下げると、二度と指導が入らなくなるのではないかという恐怖があります。私もあります。しかし私は頭を下げます。そちらの方が大切だと思うからです。そしてその結果、指導ができなくなったことはありません。むしろわかり合えたことの方が多いです。

(転)σ 指導が入らなくなることを恐れて子どもに謝れない教師はどうしても言い訳をしなければならなくなります。しかしそもそも自分自身が誤った行為や言動をとったのですから言い訳をすればするほど矛盾が出てきて説得力がなくなるのです。そしてどんどん子どもたちとの信頼関係は崩れていきます。

(結)σ 間違えたら謝りましょう。信頼を回復するのには、正直…、時間がかかることもあります。しかしその信頼を回復していくためにこそ、その第一歩を謝ることからスタートするべきだと思うのです。

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このblog の紹介

 塩崎義明(しおちゃんマン)の公式メインブログです。教育問題について語ります。

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 37年間千葉県浦安市の小学校現場で学級担任として勤導論などを担当。全国生活指導研究協議会常任委員。黒猫大好き。

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ヨシムネ&ねね

しおちゃんマンの飼い猫、黒猫ヨシムネと ねね

ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

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ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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