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卒業式の準備が始まります

卒業式の準備が始まりました。

最近は、校長連中より私の方が日の丸や君が代について詳しくなってしまいました。。
卒業式に向けて、
「日の丸にアイロンをかけた方がいいですよ」
と、私が注意しなければならない時代になってしまいました……。

もしかしたら…、今の日本の学校の管理職が大切にしているのは、国旗や国歌ではなく、職員の口パク調査なのかもしれません。私の方がずっとずっと国を愛しているのではないか?という疑いをもっています。

試しに、今の管理職に、どうしてステージにあがるときに、正面に向かって礼をするのか…、を聞いてみたらいいと思います。正しく答えられる管理職がどれくらいいるのでしょうか?

また、戦前・戦中の卒業式で、日の丸はどこに掲げられていたのか。そしてそれはなぜだったのか?を聞いてみたらいいと思います。たぶん、ほとんど答えられないでしょう。

私は日本を愛しています。そして、そこで生きる子どもたちを愛しています。

そして、この愛する日本をつくっていく子どもたちを育てていることに誇りを持ちたいといつも思っています。

愛すべき今どきの子

※本校の子、というわけではありません。一般的な傾向としての "今どきの子" です。

今どきの子は、自分の掃除の分担が終わった子に「他の場所を手伝って!」と言ったら「どうして?」と不思議そうな顔をします。

今どきの子は、自分の机の上に、他の人のノートが間違えて配られていると、そのノートを教師に持ってきます。または床に捨てます。

今どきの子は、板書でうっかり漢字を間違えると、「その程度の知識で教師になれるんですか?」と言ったりします。

今どきの子は、他の学年の子に「おはよー」と言っても無視して通りすぎます。

今どきの子は、他の子がほめられると、ヒューヒューとちゃかします。それでいて、逆な立場になり、我慢できなくなると突然きれたりします。

今どきの子は、学校対抗の大会では、自分が参加していない限り無関心。校歌が好きなことが、逆にいじめの原因になったりします。

そんな子どもたちでも、その笑顔に癒されるのが教師です。かれらの笑顔が明日へのやる気になるのが日本の教師です。

上からのお達しが絶対の教育界

学校現場にとってどんな理不尽な取り組みであっても、"県からのお達しだから" という理由だけでその命令に従わなければならないらしい。いつから日本の学校現場は、旧軍隊化してしまったのか。

そして、県からの理不尽な命令をどう職員や子どもたちに徹底させることができるのかで校長が評価されるようだ。そうなってくると校長連中の必死なのもわからなくはない。ただ、そういったシステムやスタンスについてはまったく支持しない。

教育は子どもの側から発信されるべきである。そして発信されたことについて行政は真摯に対応し、現場や子どもたちとの応答関係を築くべきである。自分たちを守るため、説明責任のために一方的に理不尽な取り組みを現場に降ろすのはもういい加減にしてほしい。

しかし、学校教育は子どもたちに自治の力を育てることをやめてしまってから久しい。国が期待した通りの発信や表現力ではなく、子どもたちのリアルな言葉で仲間や社会にはたらきかけていく力を育てることを見直していかなければなりません。

国のための学校づくりの流れをせき止めねば

子どもたちにとって必要な学校現場は、現場の教師たちの手でしかつくることはできません。しかし私たちは、国のための学校づくりにおわれ、振り回されています。子どもたちにとって必要な学校づくりを忘れがちです。

"子どもたちのため" と "国のため" は一致しないのでしょうか?残念ながら対立します。たとえば…、国のための教育は、国を動かす少数のエリートを育成することを重要な目的としています。その他は "言うことさえきいていれば良い" という方針です。

国のための教育は、全ての子に学力を、などとは考えません。どんどん競争を激化させ、エリートをしぼりこむ作業を繰り返します。このように結果的に差別選別を繰り返している学校現場には当然「いじめ関係」が発生してしまいます。

国のための教育は、国に尽くすことと個の生き甲斐を一致させようとします。だから、そのために生きた人たちの話を美談にして道徳で教えたりします。そういった生き方もあるけれど別の生き方もある、といった多様性を認めようとしません。

国のための教育は、その目的を達成するために、従順な教師を、安上がりで使おうとする傾向があります。現場には講師の立場の職員が増え、過酷な仕事量が発生しています。学校のブラック企業化です。

日本の教育を国からの流れから、子どもたちからの流れに変えていかなければなりません。そのためには、国からの激しく強い流れを盾になってせき止めることが必要になってきてしまうわけです。

学級を統率し子どもを調教するのではなく…

学級集団づくりとは教師が学級を統率することではありません。

学級集団づくりは、子どもたちが学級においてどう生き、生活し、学んでいくのかを、子どもたち自身が気づき、行動していくことを指導するものです。

学級集団づくりは、クラスのまとまりを目的としていません。仲良しであることも目標ではありません。それぞれがバラバラな個性を持ちつつ、協同・共同できる力を育てることを目的としています。

学級集団づくりにおいて、クラスのルールは、子どもたちの必要として決定します。"教師の必要" として子どもたちが 動くように「調教」することはありません。

最近、指導ではなく、調教することが現場に広がっています。調教できる教師がカリスマ・名人として重宝されているようです。

子どもたちの権利についてもう一度お互いに学んでいきたいものです。

生き方は教えられないけれど

生き方は教えられません。
でも、生きてきたことは伝えられます。

「〜した」と胸をはっては語れません。
ただ、「〜したことがある」とうつむきながらなら語れるかもしれません。

「〜するべきだ」と語れるほど自信家ではありません。
ただし、「〜してみたらどうかな?」と参考情報を提供することならできそうです。

自分の人権や自由を奪うものに対しては断固闘います。
人権や自由を奪われていても気づかない人には、気づくように話はしますが、気づくことができるほど説得力は持ち合わせていません。

ふと振り返ると誰もいなかった経験がたくさんあります。
でも、見えないところで、一生懸命手を振ってくれている人がたくさんいたことを見たことがあるのです。

子どもたち側から教育の流れを作る

学校現場の職員会議は協議機関だと思っています。みんなが意見して合意事項を決めていくものだと思っています。決して校長の判断の参考意見を述べる場ではありません。もっとも最近ではそんな意見さえも出ませんが……。

以前勤務した学校で校長が提案した内容とは反対の意見を多くの人が発言したことがありました。多数決だとしたら校長提案の企画は否決される場面。しかし当時の校長は「みなさんの意見を参考にして私が判断します」と言って強引に企画を通しました。当然その取り組みはうまくいきませんでした。

教育活動は目の前の子どもたちと共に過ごしている "教室の教師" の目や意見を無視しては成り立たないのです。にもかかわらず最近の教育活動は上意下達であると思い込まされています。上からの指示には意見してはならないものだと若い人たちは教えられています。

しかしここで注意しなければならないことが一つ。それは最近は校長先生自身にも自己判断が許されていないということ。さらに上からの指示に従ったり、まわりに合わせたりすることでしか学校運営ができない立場になっているということ。校長先生もまた苦しんでいるということです。

教育の流れを変えなければなりません。子どもたちの側から流れを作らなければなりません。子どもたちの事情を無視した上からの教育活動はうまくいかないことは、戦後の教育を振り返っても明らかです。そういった考えの上に立って、道徳の教科化が必要なのかを考えるべきでしょう。

えらそうにしたくない

本当にえらい人は尊敬するけど、えらそうな人は嫌いです。尊敬できる人は、困っている人、苦しんでいる人のためにある意味自分を犠牲にして発言し、行動できる人です。ようは、アンパンマン(な)人です。

えらそうな人は、何もかも上からモノを言います。〜してあげる、とかいう人がいますが、これは一見助けているようで、実はモノを上から見ている。それを本人は気づいていない。

最近、えらい人ではなく、えらそうな人が多すぎます。どうしてそんなにえらそうにしているんだろう?と不思議に思うのですが、よく見てみると、どうやら自分に自信がないからえらそうにしているみたいです。

子どもに対してのスタンスも同様です。自分に自信がない時、どうしても子どもたちに強くあたってしまうような気がします。自信がない時にこそ、子どもたちの側に立って、一緒に頭を抱える切り替え?間?が大切かなと。

そういう自分は、自分に自信があるのかというとまったく逆。ゆえについついえらそうにしてしまうこともある……。でも、そうはしたくないし、それは日本人としての品がないと親から教わりました。

自信がないがゆえに、もっともっと勉強しなければならないし、同じように自信をなくしている人たちと一緒にどうしたらいいのか知恵を出し合うべきだと自分に言い聞かせています。

PCでのメールのやりとりが減ってきた

最近のメールのやりとりはほとんどがスマホ。しかも、LINE。

PCでのメールのやりとりがほとんどなくなりました。

実は自分で、研究会関連で、PCメールアドレスを使ったメーリングリストを6つ管理しています。そこでは、大きな書類のやりとりはあるものの雑談系のやりとりはありません。

それでも、メーリングリストをやめないのは、深い話、長文になる話は、やはりPCメールを利用するしかないということ。そして、私の場合、そういった機会がまだまだあるということです。

短文での言葉のやりとりは、刺激のある言葉の "投げつけ" とやりとりの繰り返しになりがちです。やはりじっくり系のコミュニケーションは、まだまだ必要だと考えています。

最初の嫌われ者

職員室が、

「こんな会議は早く終わらせて次の仕事をしたい」
「理不尽なことでも、個々でなんとかごまかせる」
「だから不毛な反対意見なんか言うな!」

という空気の中で、意見を言うのは本当に辛い。

意を決して意見を言っても、

「普段できていない奴が文句言うな」
「あなたにそんなこと言う資格があるの?」
「あなたのそういった意見が職場の和を乱す」

という目で見られるのだから最悪。

それでも意見を言わないと…。学校現場に負の遺産を残してはならない。

孤独な闘いだと思った。でも闘ってみたら孤独ではなかった。

もし闘わなかったらものすごい孤独感におそわれていた。

若い人たちの笑顔が見たい。

子どもたちの笑顔が見たい。

同僚や子どもたちの笑顔が、私を癒してくれるから、

まだまだ「最初の嫌われ者」にならなければと……。

職員会議で『言葉』を伝えたい

最近のほとんどの学校現場では、職員会議で発言がありません。上からの指示は絶対、言っても何も変わらないというあきらめ、反対意見を言って対立するよりも人間関係重視、そういった学校現場になっています。

私も職員会議で発言するのが苦手です。苦手なくせに一番発言しています。その場の雰囲気を悪くしたり、空気を読まないと思われることでも、やはり言わなければならないことは言わなければなりません。学校現場の次の世代に負の遺産を残してはならないという思いが強いのです。

しかし繰り返しますが、私は職員会議での発言が苦手です。発言直前には、何度もペットボトルの水を飲みます。今でも足が震えます。言っているうちに何を言っているのかわからなくなることも多々あります。途中で、話の組み立てがおかしいことに自分で気づき、顔が熱くなることもあります。

発言のために、紙に文章化しておくことがあります。しかし棒読みになったり、気持ちが前に向かないような感じがして、本当はしたくありません。しかし、何もないよりはマシというところでしょうか。

きっと子どもたちも同じでしょう。「自分の意見を言いなさい」などと教師は簡単に言いますが、みんなの前で自分の意見を言うことはかなり難しい。その難しさは、教師が一番知っておかなければなりません。

好印象を与える話し方ではなく、発信者の思いや生き方が伝わる話し方をしたいと思っています。それを最近は"『言葉』を伝える"と言っています。『言葉』とは単なるワードではないということです。そのための話し方を考えてみたいし子どもたちにも教えたいと最近強く思うのです。

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ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

ねね
ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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