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「ありがとう」。

2014年2月27日(木)6年1組日刊通信 NO.184より
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ありがとう

明日、「感謝の会」です。ということで、「ありがとう」という言葉について考えてみました。

「ありがとう」とは、「有り難し」(ありがたし)からきた言葉。「有り難し」とは本来、「有ること」が「難い(かたい)」、すなわち「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味。ゆえに、そういった事象や行為に対して尊敬の念を持つということから、感謝の意味で「ありがとう」が使われるようになりました。

それに対して、関西で使われる「おおきに」とは、寛大に、という意味。思いやりや広い心で受け止めてくれたことに対する感謝の言葉。しかし、同じ関西弁でも、大阪が「ありがとう」の意味で使うのに対して、京都は「けっこうです」というような、拒否する時にも使うようです。日本語はおくが深い。

さて、外国人に聞いてみると、もっとも美しい日本語は「ありがとう」だと答えてくれます。じっと目を見て「ありがとう」と言われるときほど日本人が奥ゆかしく見えるときはない、ということ。自然や周りの人びとに感謝する心の大切さを説いた「ありがとう」。

「今日も一日ありがとう」嬉しかったこと、失敗したこと、叱られたこと、みんな、ありがとう。

試しに、寝る前に、ひとこと口にしてみたらどうでしょうか。もしかしたら、次の日が楽しみになってくるかもしれません。
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真の "親分肌" とは

管理職の皆さんには、本当の意味での親分肌を見せてほしいものです。本当の親分肌とは、単に面倒見が良いだけではありません。"責任は自分が取るから好きなようにしてみろ!" と、言い切れるような気性です。

お気に入りだけ下の名前を呼び捨てで呼んだりして普段はえらそーなのに、いざとなったらその下の者に責任を取らせようとする。そして実はその "お気に入り" からも支持されていない…。そんな、偽(にせ)親分肌の管理職が多すぎないか?

そして何よりも真の親分肌とは、下の者のために上に物申すことができる人。ところが、"上には甘く下には冷たい" 人が多くないか?教育委員会の職員が来校した時に「靴べらがない」と怒鳴り散らす管理職がいるとしたらとても残念。

実はこのことは学級集団づくりにも同じようなことが言えるわけで、子ども集団の中で教師が教師として受け入れられるということは、教師が子どもを理解しようとするスタンス、そして子どもを信じ、いざとなったら教師自身が理不尽な学校管理から子どもたちの盾になろうとする教師の生き方なのだと思っています。

今週金曜日に「感謝の会」

2014年2月25日(火)6年1組日刊通信 NO.182より
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今週金曜日に「感謝の会」

先週のお手紙でお知らせしましたように、28日(金)に「感謝の会」を開きます。ちなみに、「感謝」というのは、子どもたちが保護者のみなさんに対して感謝する、という主旨です。

低学年での生活科や、4年生での1/2成人式でも、"その時点まで育ててくれたことに感謝する" といった主旨の会が開かれてきました。では、今回の会と、今までとの違いはなんなのでしょうか。

それは、親子関係が変わってきていること…、つまり、感謝の内容や質が当然変わってきているということだと思います。ここまで育ててくれてありがとう、中学校でもがんばりマス!などという、簡単な感謝ではなく、新たな進路に導いてくれたこと、そして今後の人生の指針を与えてくれたことへの感謝だと思っています。

しかも、最近ではおそらく多くの親子関係において、ああ言えばこう言う、のやりとりが増えているかと思います。つまり、子どもたちは、親を批判的に乗りこえていく。それがないと新しい自分を造り上げていくことができません。

そういう中での「感謝」とはいったいどういう質の物であるべきなのでしょうか?たとえば、"口うるさい親に感謝なんかしたくない"、と言う子どもがいたとしても、それをそのまま受け止めてはいけないということです。そう言いながら、どこかで感謝しているのだし、そういった批判的な目は、安心できる親や家庭があるからこそできるのです。

さて、会は、私たち職員がバタバタした中での準備でしたので、もしかしたらスムーズに進まないかもしれません。卒対の方、役員の方達が、たくさんたくさん準備を進めてくれました。感謝されなければならない保護者のみなさんの手を煩わせてしまい、本当に申し訳ない気持ちです。

しかし子どもたちは一生懸命、準備をしたり、演技を披露したりします。どうか楽しみにしていてください。
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緊張感ではなく感動が残る卒業式に

学習指導要領が改訂され、その頃から卒業式などの学校行事が、儀式的行事として位置づけられました。私たちは卒業式を上から定められた特別な行事として位置づけるのではなく、子どもたちや職員のアイデアや工夫によって主催されるべきだと考え、当時儀式化に反対しました。

しかし今では完全に儀式化しています。そしてその多くの作法が、神事の作法に基づいているということに上(うえ)の人たちはおそらく気づいていない、知らないと思います。歩き方からお辞儀の仕方や角度、正面に対しての「礼」。証書のもらい方から座り方まで、それらは神事の作法に基づいていることに気づきました。

たとえば、ステージに上がる人が、手前で正面に礼をしてから中央に歩きます。あれは旗にお辞儀をしているのではなく「正面」に対しての「礼」なのです。武道を経験された方はわかる思います。そもそも日本には、旗に対して敬礼する習慣はありません。そういったものに対するマナーはおそらくアメリカのコピーかと思います。

卒業式が儀式化してから、子どもたちの中では、感動ではなく、緊張感が残る式になってしまいました。退場口から出た卒業生が、フーッとため息をついたり、のびをしたりしているのが、今の日本の卒業式ではないでしょうか?

それはそれで大切だという意見もあります。しかしこの経験を(緊張する経験を)なぜ卒業式でしなければならないのか?ということ。

でも我々は現場の教師です。こういった中でも、子どもたちと一緒に卒業を祝い、別れを惜しみ、感動できる式を造り上げるために、日本全国の教師たちが調度今、奮闘している頃かと思います。

卒業式に"心"と"学びと自治"を

卒業生が卒業式の時に呼びかける「別れの言葉」の原稿を作っています。本校は群読形式。子どもたちから文章を募集して、できるだけ子どもたちの思いが表現できるような文章にして。

ところが書いていて、しだいに疑問が出てきてしまいました。そもそもこの「別れの言葉」は、昔は(今でも)、「答辞」という位置づけで、在校生や学校の「送辞」(送る言葉)に対して"答える"というスタンスで位置づけられてきたものだったのでは?

しかし最近の「答辞」は、その意味が薄れ、いわゆる「別れのメッセージ」になっています。こちらの地域の学校では、まず卒業生が語り始め、途中で在校生が語る場面があり、最後にもう一度卒業生が語る。途中で合唱が3曲ほど入ります。それはそれで良いとは思います。

ただ、そもそも卒業式ってなんだ?というお話。形ばかり重視し、国旗や国歌を尊重することが「あたりまえ」と強要され、大切な中身が形骸化してしまってはいないか……。

一人ひとり壇上で夢を語るなどの工夫をする学校も出てきてはいるものの、子どもたちからしてみたら、どうしてみんなの前で自分の夢をしゃべらなければならないのかと……。あの発想は、大人側の発想であり、けっして子どもたちから出てきた発想ではないし。

卒業式が、送辞⇒答辞の順番で進んでいたことを考えると、式の主催は学校や在校生。卒業生を送る会だったのでは?だとしたら、在校生のアイデアや工夫、自治の力で卒業式が開催されるべき?

卒業式が上からの儀式として扱われるようになってから、厳粛な式にはなったかもしれませんが、残念ながら、"心"や "学びと自治" がなくなりました。そして子どもたちはそのことを見抜いています。「君たちが主人公」なんて言っているのは教師だけかもしれません。

だとしたら、式に "心" "学びと自治" を入れていく作業は、現状では卒業生とその職員たちで進めていくしかないようです。よし、いろいろその指導を考えてみよう!

時間に優しくすること

2014年2月24日(月)6年1組日刊通信 NO.181より
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時間に優しくすること

残りの日を大切にすごすということは、時間や物、人に優しくすること、という話を先週の木曜日に学年全体にしました。

物や人に優しくするということは、なんとなくわかるような気がします。しかし、時間にやさしくするということはどういうことなのでしょうか?

一つは、時間を守るということ。では、時間を守るということが、どうして時間にやさしくすることなのでしょうか。それは、時間を守るということは、待ってくれている人たちの時間を大切にするということだからです。みんなが待っているのに、いつも遅れてくる人は、待っている人たちの時間を大切にしていないということで、時間に優しいとは言えません。

二つ目は、自分一人の時間を持つために時間を大切にする、ということ。中学生になると、一人でいる時間を持ちたくなります。友達と一緒にいる時間と同じくらい、一人でいる時間は大切な時間になってきます。つまり、時間を有効に使って、一人の時間(自分)を大切にすることも、時間に優しくするということなのです。

このように、時間に優しくするということは、まわりの人や自分に優しくする、ということなのだと、先生は考えています。

今まで、親や先生につくってもらっていた時間を、これからは自分で管理していかなければなりません。
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教師個々の努力もそろそろ限界

教師は、どんなに子どもたちに裏切られても、それでも子どもたちを信じて、繰り返し繰り返し指導を継続していかなければならないのだと思います。いや、「裏切る」という言葉を使うのではなく、自分の指導のいたらなさを責めながら。

しかし……、

子どもというのは、失敗しながら成長していくもの。だから失敗は許しつつ指導しなければならないとは思うのですが、どうしても教師は自分自身がこんなに一生懸命指導しているのに、それをバカにして平気で指導を拒否しているように見えてしまう……。

特に最近の子どもたちは、自分の中に教師と言う存在をとても軽く位置づけています。バカにしているということではないのですが、とても低いところに位置づけていることは確かです。それは、保護者がそのように見ていることもありますが、日本の教育政策が学校教育をギスギスに締め付けて、教師と子どもたちとの関係が壊れるように仕向けてしまったこともあります。

子どもたちに、習い事は有料、学校は無料、だから習い事を優先するのは当たり前、と言われてショックを受けたことがあります。それは、学校を優先してほしいということではなくて、その判断基準が、"有料か無料か"、だったからです。

義務教育が壊れていく音がします。
子どもの権利は着々と踏みにじられてきています。
教師の人権も無視されてきました。

それでも日本の教育水準が維持されているのは、日本の教師個々の真摯に教育活動に向き合う姿勢と、自らの生活を犠牲にして子どもたちに向き合っていこうとする努力だと思っています。

しかしそういった教師個々のがんばりも、そろそろ限界にきていることもまた確かです。

教育の自主自立から子ども自治へ

先の戦争の教訓は、教育とは、政治的中立性が大切だということです。けっして国に直轄のモノとしてすすめてはいけないということ。

国から直接関与できるようにすれば、上が責任をとってくれるのかというと、大きな間違い。「上が責任をとるシステム」ではなく、「下に責任をとらせるシステム」にしようというのが、国のねらい。

教育の中身・内容を問わない方法論は、国のためだけの教育に利用されるだけです。楽しい授業方法だの、子ども統率のための学級経営論は、そういった意味で、とても危険だと言うことです。

今大切なのは、子どもたちの手による子どもたちのための学校にするための筋道を明らかにすること。つまり、それは子ども自治であり、子ども集団づくりであると言えます。

物事をシンプルに考える

相手を傷つける暴力・暴言は、どんな理由があっても「ならぬ!」といったシンプルなスタンスが必要です。

しかし最近の子どもは、"言い訳っ子" です。相手だってやってるじゃないか!どうして自分だけ叱るんだ!とか、先生は贔屓しているとかズルイとか、いろいろもっともな言い訳をしてくるわけです。

しかし、ならぬものは、いかなる理由があろうとも、それはならぬものなのです。

相手だってやってるじゃないか!という理由があっても、確かに相手もやっているかもしれないけど、あなたの行為はダメなものはダメ。ひいきしているとかズルイとか言われても、そう見えるかもしれないけど、あなたの行為はダメなものはダメ、というシンプルな指導が大切。

その事情はきちんと聞くことは当たり前だし、教師に間違いがあったら謝る場合もあるでしょう。しかしそのこととは別に、あなたがやった行為については反省するべきなのです。

子どもたちの生活背景が複雑になり、子ども同士の関係もいろいろな事情を抱える時代になり、様々にからみあったトラブルが起こるのが今の学校現場。ゆえに教師はいろいろと考えすぎる傾向が出てきてしまったことも確か。

子どもたちの事情を知りつつも、一方でシンプルに間違いを教えてあげることも求められているように思います。

学校珍百景 「学校あるある」を問い直す

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↑↑表紙をクリックして学事出版のサイトから購入する。

▼下記のネット書店でも直接ご購入できます。







塩崎義明 編著
学事出版
四六判で定価は1600円(+消費税)

推薦・解説――――小野田正利(大阪大学大学院教授)

教育史研究の大家であった佐藤秀夫先生が『学校ことはじめ事典』(小学館)を著して、明治以来の学校にまつわる物と行為の歴史をわかりやすく紐解いてくれたのが1987年だった。この『学校珍百景』は、それに続く「いま現在の」動いている「学校のなぜ?」を、とりわけ小学校に焦点をあてて、ていねいに分析している好著だと思う。

〜中略〜

“2「朝の会・帰りの会」はいらない”は、なるほどと思う。確かに、その日に起きた子ども同士のトラブルを、「早く帰りたがっている」帰りの会の中だけで解決するには無理があるし、解決したことにしてしまおうという教師側の見栄えや満足感が先に立つ。『珍百景』といえば、テレビ朝日系列の人気番組「ナニコレ珍百景」が思いつくが、この項目を含めて「所さんの目がテン!」(日本テレビ系列)的な面白さがある。

“5 席替えはいらない?”では「生活する意味での座席」と「授業を受ける権利としての座席」の両面から考える必要があると訴え、多様な席次や席の隊形を工夫してみる必要があるという。

“27 お昼の放送で流せる曲と流せない曲”では、どこまでがセーフで、どこからアウトなのかを、子どもたちと一緒に試すことが提案される。これらはさしずめ「ためしてガッテン」(NHK)だ。

〜中略〜

学校の不思議や問題点を指摘する本はこれまでもいくつか出されているが、本書の最大の特長は「単なる批判」ではなく「こうしたらよいのではないか」ということが具体的に示されていることにある。魅力的な学び舎としての学校とするために「珍百景」を解き、「新百景」から「真百景」を説こうとする“しおちゃんまん”先生たちの姿勢にエールを送りたい。

教育的組織と個

学級組織は教育的に活用されなければなりません。"みんなで決めた意見"、"多数の意見"、"教師の思惑" に従わせることばかり考えるのではなく、反対の意見こそ大切にし、その発言をむしろ前面に出していかなければなりません。

"みんなで決めたことだから"、と決定や価値を少数派に押し付けるのは教育的ではありません。常に、その決定は正しかったのかをふりかえ続けることが教育活動です。

そもそも日本型組織は、組織決定としての発言しか許さない傾向があります。組織決定の過程で反対意見を持っていた個は、その組織を去らなければならないのでしょうか?それは違う。

組織は個の発言を保障しなければならないと思っています。言い換えれば、個の発言を保障するために組織がなければなりません。

集団は個を育てます。個は組織を利用して声を発信して広げます。集団と個、個と組織の問題、そして教育としての組織・集団について、考え直す時代が来ています。

指導は意図をもった営み

教師は子ども個々の息づかいを感じなければなりません。そして、子どもたちの空気を感じながら、子どもたちに受け入れられることをもっと意識するべきだと思っています。

しかし一方で…、意図的に子どもたちの空気を読まずに発言し、行動することがあります。KYであることに文句があるなら言ってこい!くらいの開き直りで、異質な空気をぶつけることも必要だと感じています。

この時に、KYに振る舞うことが意図的であるかどうかが重要です。意図的であれば異質な空気を入れられた子どもたちがどのように反応するのかを見通せるのです。意図的でないと、なぜ子どもたちが着いてきてくれないのかに悩むことになります。

指導は意図をもった営みです。しかし教師の仕事は人と人とのやりとりなので、ついつい意図を持たないやりとりに流され、感情的になったりお互いに不信感をもったりしてしまいがち。指導としての意図を持つことをもう一度意識し直してみたいと思っています。

排除・攻撃⇒はたらきかけ・受け入れ

ちょっとかわった空気を持っている子がいたとします。今の子はそういった子をすぐに排除したり攻撃したりします。また、蔑んで、自分より下に見ることで自分が優位に立とうとします。さらには、そういった子をいじめることで他とつながろうとします。

私は、ちょっとかわった空気を持っている子にこそ大いにはたらきかけることを教ええたいと思っています。そしてその "はたらきかけ" は、その子の特徴を前向きに生かしていく "はたらきかけ" でなければならないことも教えなければなりません。

それを「いじる」という表現を使っても良いのですが、その表現は、しつこい "いじめ" につながる危険性があるので十分注意しなければなりません。あくまでも、その子の良さを生かしていく「はたらきかけ」でなければならないと考えています。

もちろん「はたらきかける」とは、上から目線でのことではありません。お互いの呼吸を感じながら、対等な立場で、ということです。

はたらきかけることにより、子どもたちは、自分とは異質な個性としてその子を受け入れます。場合によっては、自分の中にも取り込み、新たな自分を発見することもあります。

子どもたちの「排除・攻撃」の関係を、「はたらきかけ・受け入れ」の関係に転化していかなければならないと考えています。

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ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

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ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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