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理不尽さを声にする権利

ここ1,2年、異常とも言える忙しさと、教師にとって理不尽な要求、そしてパワハラ・セクハラ問題、さらには子どもの指導についても学校現場に "おかしなこと" が広がっています。

そんな中で、我々教師は日々苦悩し、結果的に、子どもたちに理不尽な要求をし続けることになっています。

指導が難しい子どもについて「早目につぶせ」という言葉を平気で使う教師。短い休み時間にはトイレ以外教室から出てはいけないという規則を作っている学年、学力テストで学校の順位が上がったら自分を胴上げしろと本気で言う校長。

運動会で教師の服装を強制的に統一しようとする学校。学力テストだけでなく、新体力テストでさらに学校、都道府県の競争を激しくしようとする文科省。エトセトラエトセトラ……。

現場の中に、教師の競争と、差別・排除が持ち込まれ(自ら無意識にその競争の中に身を置いてしまい)、結果的に子どもたちがつらい立場になっていないでしょうか。

子どもたちのつらい反撃は始まっています。第三次学級崩壊はさらに広がるでしょう。中学校の荒れも厳しくなるかもしれない。親子間・若者の犯罪が増えてしまうのでしょうか。

私たちは子どもたちと和解しなければなりません。そのために私たちは、現場に要求されている理不尽さ、そしてその中での苦しさを声にしていく必要があります。そしてその権利はまだ残っていると思っています。

集団的指導ができる日本の教師

教師でない方やALTのみなさんの指導を観ていると集団的な指導ができていないことが多いです。一人ひとりや数人の子どもたちに関り、その他大勢の子どもたちは待っていなければならないといった場面が多い。

日本の教師は、教師一年目の経験の少ない教師でも、常に集団的な目で子どもたちを観ることができます。一部の子を指導している時に多くの子を待たせているといったことは絶対にしない。

そういった集団指導的視野を持つことができる日本の教師は優れていると思うわけです。たとえば、集団の中に話し合いを生み出す意図的な発問について、日本ほど研究されている国はないのではないかと思うのです。

ところがここにきて、集団の質を高める中で個を育てていくといった考え方や研究が軽視されているような気がします。個別に指導し、個別に責任を負わせる…、そういった指導では、逆に個は育ちません。人間は社会的な動物なのですから。

「体と心をほぐす体育あそび」の改訂作業

「体と心をほぐす体育あそび」の本を書き直す作業を始める予定です。

考えているのは、「休み時間に体を動かすあそび」の章を起てることです。

休み時間、子どもたちはどんなあそびをしているでしょうか?

男子はボールあそびばかり、女子の中には、外に出たがらない子も増えてきています。

そんな中、業間体育のような、上からの強制運動が復活してきています。

強制運動ではなく、子どもたちが自らの必要とアイデアであそべるようなヒントを、チームしおちゃんマンで考えていきたいと思っています。

サッカー

明日のコートジボワール戦。何人の日本人がみるんだろう??かくいう私も必死に応援するつもり。

しかし一方で……、自分は開催地ブラジルのことは何も知らないのだけれど……、大会はブラジル国民全てが歓迎しているわけではないようだ。

「学びがない」ということは恐ろしい。自分の意見が持てないから……。ということで、残念ながらこの件についての意見は書けません。ブラジルに何が起こっているのかをもっと私たちは知るべきだったのかもしれません。

サッカーに限らず、スポーツが大きな大きなビジネスモンスターになっています。世界の新自由主義はスポーツをのみこみました。そして、世界の人々のスポーツへの熱い思いも、市場化することに成功しているように見えます。そして新自由主義の持つ宿命的な結果として、あらゆる面で格差が生まれています。

スポーツは、世界の人々が仲良くなれる一つの文化として大切にしたい。いや、スポーツとはそもそもそういうものだったのではないだろうか。

こんな時代のスポーツであるからこそ、いわゆるスポーツマンシップに拍手をおくれるように大会になってほしいと……。

地域の関係性が子どもたちのトラブル解決のキーワード

自分の子どもがいじめられることの心配の方が、どうしても大きくなってしまうのですが、考えてみると、いじめる側にまわってしまう可能性の方が高いということを見逃しがちです。

また、いじめ・いじめられ関係は、立場がめまぐるしく変わるという特徴もありますので、加害の立場になってしまった時の準備はとても大切です。

つまり、相手のお子さんをなんらかの形で傷つけてしまった場合(言葉で傷つけることや仲間はずしも含む)、自分の子どもにどう声かけをしていくのか、そして親自身がどのように行動しそれを子どもに示していくのかという問題はとても重要だということです。

さて、ここまで考えてきて、実はここに大きな壁があることに注意しなければなりません。それは、大人同士の関係、気まずさ、風評といった壁です。

たとえば、子ども同士のトラブルがきっかけで、地域で気まずい関係になってしまったり、さらには、まわりから「あそこの家の子は…」などと見られないだろうか、といった不安……。

そして……、時には、上記のような壁に負けてしまい。子どもに理不尽な叱り方をしてしまったり、逆に叱れなかったり……、といったことも出てきてしまうのが最近の傾向。

こう考えていくと、親同士のつながり・関係が、子どもたちのトラブルをのりこえるのに、とても大切なキーワードになってくるということがわかってきます。

しかし、それが一番むずかしいことも……。

今大切なこと 2014_06_12

今、大切なこと

「できる教師」になろうとしないこと。

子どもと一緒になって、大笑いができること。

そして時には、理不尽な力に抗して

一緒に “荒れて” みること。

子どもたちの目から学級・学校がどう見えているのか、

子どもたちの目から、仲間がどう見えているのか、

子どもたちの目から、大人・社会がどう見えているのか、

子どもたちが見えている物が見えた時、

教師としての大切な何かが、

きっとみつかるはずです。

教師の喜びって…

9年前の小学校3年生の時に担任していた子が2人、高校3年生になってたずねてきてくれた。この間わたしは、学校を2つも異動しているのに…、しかも卒業の時の担任ではないのにたずねてきてくれた。

教師の「喜び」って、きちんと学級ができているとか、仕事が早いとか見られることではなくて、こういったことだったはず。

にもかかわらず、最近の教員は、目の前の見栄えばかり気にしすぎている。

今この瞬間、まわりに評価されていなくても、子どもたちとの関係が結ばれていれば、そして。保護者のみなさんが信用してくれていれば、それでいいじゃないか!と、たずねてきてくれた教え子と話をしていて、あらためて思う。

操作主義の人たち

教師が学級を統率しなければならないと考えている人たちは、子どもをどう操作するのかに夢中のようです。

そういった人たちは、たとえば「学級にドラマを演出する」などと平気で言います。子どもたちの生きるストーリー・行動まで教師が操作しようとしていて、その「演出」ができる人が「名人」なのだそうです。

仮に、教室に感動的な物語としての「ドラマ」があるとしてもそれは結果論。教師が意図的に「演出」してはいけない。ただし、指導の結果としてそうなることは大いにあり得る。その指導の目的は、ドラマにすることではなく、子どもたちの学びや関係性にあるべき。

どれだけ "子どもたちを操作" すれば気が済むのか?と言いたい。もういい加減にしなさい!と。

名人だの、カリスマだの、花まるだの、学級崩壊請負人だの、侍(サムライ)だの、教師が名のるのはもうやめましょうよ。

しかし最近になってやっと、そういった「名のり」や「名のっている人」に、 "引く" 教師が増えてきたことが救いではあります。

「授業あそび」の考え方

国語の研究授業の準備をしていて、私たち集団づくり研で提唱している「授業あそび」について、自分で編集したのですが、あらためて「そうだよなぁ…」と共感することたくさんあり。



私は「授業あそび」の意味として、次の三つをあげてみました。

一つは、授業には、教師の遊び心が大切だと言うこと。つまり、「授業あそび」の「あそび」とは、教師自身の「あそび」でもあるということ。

二つ目は、授業あそびは、子どもたちのつながりを問うものでなければならないということ。

三つ目は、それらのことを通して、子どもたちが教室の主人公として登場することを見通さなければならないということ。

※詳しいことは本書をごらん下さい。

ドリル的学習スタイルが日常的になりつつある日本の学校現場において。上記のメッセージは大切だと考えています。

指導案づくり

ここ数日、校内研究授業の指導案づくりに取り組んでいます。こういった忙しさは楽しい。書類作りやお金の計算ではないので。私たちの本来の仕事なので。

さて、本校の研究は「国語」です。伝え合い・学び合いをテーマにしています。

全校の研究授業は、各学年1名です。学年主任やベテランはあまりやらないのですが、私の学年(2年生5クラス)は、私が立候補しました。

24年ぶりの2年生で、低学年を学び直したいと考えたからです。しかし、もしかしたら、若い人たちもやりたかったのではないか…、私が「やる」と言い出したら引っ込んでしまうのは当たり前だったのかも…、と少し反省。

そこで、私がやることに決まった後、「もしかしたらやりたかった?」と聞いてみたのですが、そう聞かれれば「そんなことはありません。楽しみにしています」とこたえるしかないのか…と。

授業は、アニマシオンの読書指導と、私たちの「授業あそび」を組み合わせながら、「エルマーのぼうけん」を子どもたちと一緒に読んでいます。

あえて内容を盛りだくさんにしてテンポをあげてみようと思っています。子どもたちとのやりとりのリズムが大切だということのメッセージを若い人たちにも伝えたい。

研究授業は19日です。

低学年・中学年が大変

それぞれ違う学校なのですが、似たような状況の相談を、ここ数日で続けて受けました。2年生と3年生です。

死ね、消えろ、バカじゃん…、暴言をはく子どもたち。一人が授業中立ち歩いてあちこちにちょっかい。そしてそれに対してキレるまわりの子どもたち。廊下を走る…、あき教室に乱入する…。注意・指導すると一瞬シュンとするが、数秒後には元にもどってしまう。

保護者からは、 "荒れているのでは?" と心配する声が広がり、やがてそれが不信感に。職員室では "担任の指導が悪い" というだけで、なんの具体的な手立てが出ないどころか、話し合われることさえない。

もう押さえつける指導ではだめとなると、今度は、排除の論理が出てくるしまつ。

なぜ、子どもの権利の視点から、長い時間・長い期間待つ、聞き取る、話し合う、職員で共同する…、の視点が出てこないのであろうか。

担任まかせ・責任の押し付けの繰り返し。

まだ6月が始まったばかりである。

目の前のことに振り回されないこと

小学校2年生の保護者のみなさんに茶話会でお話ししたこと。

つまり、子育ての山場は今じゃないこと。これからもっともっと大変なことがあるということ。(おどかしているわけじゃなくて……)

ということで……、目の前のイライラに振り回されないこと。子育てを長い目で見て欲しいこと。今のイライラよりも、お子さんの長い長い未来を。今のイライラを捨てて、じっくり待ってあげるスタンスを!

むずかしいのはわかります。

でも、同じ悩みを抱えてみんな子育て奮闘していることだけは、わかってほしい。

そして教師も、一緒に悩んでいきたい、私のような変な教師もまだまだたくさんいるということもわかってほしい……。

子どもたちの言語能力が落ちている

日本の子どもたちの言語能力が極端に落ちている、と感じるのは私だけだろうか?

ここでいう言語能力とは、ワークテストで答えられたり、作文が書けたりすることではなくて、「日常的に会話ができる能力」である。こういった言語能力は、お金をかけて習い事でつけようと思っても無理。

低学年の子どもたちを見ていると、順序よく話すことができないし、質問に要領よく答えることができない子が多い。

この低学年の話す力のまま高学年になるのだから、「うざい」「むり」の一言ですべてが済ませようとする事情も理解できる。

幼い子どもたちから話す力を奪っているのは誰だ?。学校の責任も大きい。

大人がすべて先回りしてしゃべってしまっていないか?子どもたちが話すのをじっくり待つことができていないのではないか?

おしゃべりをたくさんさせなければ。大人は子どもたちの話をじっくりゆっくり聞かなければ。結論を急いではならないのでは、と。

日本語の力が目に見えて落ちているのに、英語がどうのこうのと言っている場合ではない。日本人は、自らの言語能力を失いかけているのに。なぜそれをみんな感じられないのか。

子どもの『言葉』を先取りしてしまうことと、子どもの将来の不安から、息子を刺してしまうことと、どうかつながっていませんように。

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 塩崎義明(しおちゃんマン)の公式メインブログです。教育問題について語ります。

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 37年間千葉県浦安市の小学校現場で学級担任として勤導論などを担当。全国生活指導研究協議会常任委員。黒猫大好き。

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ヨシムネ&ねね

しおちゃんマンの飼い猫、黒猫ヨシムネと ねね

ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

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ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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