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たとえば「命の教育」……

「命の教育」をしたから、子どもたちが「はい、そうですね」と命を大切にする生き方ができるようになると、本気で思っているのだろうか?というお話。

たとえその授業が、子どもたちが深く考え、討論し、感動的に終えることのできた授業だとしてもです。

外国では、民間人が避難している学校に爆弾が落ち、民間機がミサイルで撃墜され、多くの人々の命がなくなっている……。そういった報道が日常的に流れています。

ネットでは、弱い者、ダメな奴は生きる資格がないという価値観が広がっています。

そんな日常の中で、『命を大切にしましょう』というメッセージがどれだけまともに子どもたちに届くのか?という疑問です。

私たちは子どもたちに詫びなければなりません。命が大切にされない世の中にしてしまったことについて謝らなければなりません。そして、それでも、そんな世の中をなんとかしようとふんばっていることを子どもたちに伝えなければなりません。

そんなおとなたちの苦悩を語らずして、命の大切さは語れないのかもしれません。

「あいさつ」が "言えれば" 良い子なの?

「あいさつができること」を学校目標にしている学校が少なくない。そして多くの学校で、子どもたちがあいさつができないことを嘆いている。

校門に、児童会・生徒会の役員や生活委員会……、学校によっては校長自らが立って、登校してくる子にあいさつをしている風景は日本の学校ではめずらしくなくなった。

そこで、「あいさつ」にまつわる三つのこと。

(1) どうして最近の子どもたちはあいさつができないのか。

そもそも最近の子どもたちが教師に対して、友達に対してあいさつをしなくなったのは、コミュニケーションをとる必要を感じなくなったからではないのか。もっと言えば、ある意味 "知らない人" だからである。大人だって、知らない人に気軽にあいさつをするのは勇気がいるはず。子どもたちならなおさらである。

したがって、機械的に「おはよーございま−す!」と言わせるのではなく、あいさつを入口としたコミュニケーションをつくりあげていくことが大切ではないだろうか。簡単に言えば、教師と子どもたち、子どもたち同士はもっと知り合いにならなければいけない、ということ。(昔の学校は教師と子どもたち、子どもたち同士がもっと近い関係にあったように感じる)

(2) 教師は子どもたちに本当の意味で「あいさつ」をしていないのではないか。

教師が子どもに対して「おはよーございます」はおかしい、教師は「おはよー」ではないのか?…、というのが愛知教育大の藤井先生の問題提起。

つまり、教師が子どもに「おはよーございます」と言うのは、 "この通りに言いなさい!" という押しつけが感じられる。つまりこれは「リピート・アフター・ミー」であって、教師から子どもへの「あいさつではない」ということ。私もその通りだと思う。

そう言われてみれば、英語のあいさつは「Hello, how are you doing?」と相手の調子を訪ねる。それに対して、相手も、「Fine!/Not bad./So-so. And you?」とかで応答する。そこから、会話が始まるのがあいさつなのだということを示唆している。

教師の「リピート・アフター・ミー」の考え方は、廊下を走らせない時に「走りません!」というのと同じである。日本の教師は、自分の言う通りに言いなさい・やってみなさい、という「リピート・アフター・ミー」が好きなようだ。

ちなみに私は、「おはよー!○○してきたか?」「おはよー!元気ないけどどうした?」と、「おはよー」のあとに一言付け加えるように心がけている。

(3) 子どもに「距離感」を教えること

距離が近い関係、親密な関係においては、逆にていねいなあいさつをしない場合がある。「よう!」で済ませてすぐに必要なコミュニケーションが始まる。

しかし、形ばかり追いかける学校教育は、こういった関係に目を向けようとはしない。「『よう!』とはなんですか!『おはよーございます』といいなさい!!」などと言ってしまう。子どもからしてみたら、「よう!」で済んでしまう関係の相手にあらためて「おはよーございます」などというのは恥ずかしくてできないし、それを強要する教師に不信感を持つ、ということになる。

しかし一方で、最近の子どもたちは、人との距離感がとれない子が増えていることも事実。いわゆる「失礼な言葉遣い」しかできない子が多いし、それではこの先、やっていけないのではないかと心配になる場合もある。子どもたちに多様な「交わり」を保障し、指導することで距離感を感じることのできる子どもたちを育てることも大切な……、今の時代求められている実践課題ではないだろうか。

<参考>「あいさつ」の教育学
http://d.hatena.ne.jp/fjhiro3/20130605/1370422191

誘惑!

(起)/誘惑! できる教師になりたくありませんか?できる教師とは…、仕事が早い/教室がきれい/授業がうまい。そしてできる教師が担任する子どもたちは落ち着いて見える。

(承)/誘惑! 良い子に育てる教師力を持ちたいとは思いませんか?良い子とは…、挨拶ができる/上下関係をわきまえている(教師に敬語が使える)/自分で動ける。

(転)/誘惑! できない教師、残念な教師、痛い教師にはなりたくないし、そう見られたくない。できる教師になって、良い子を育てたい。でも……、本当にそれでいいの?

(結)/誘惑! できる教師になるために、子どもが置き去られ、管理の対象になっていないか?良い子にするためにその子らしさを消していないか?子どもの学ぶ権利を侵していないか?

日本人は都道府県対抗が好き?

甲子園も各都道府県代表が決まり、本番に向けて盛り上がりを見せています。

それにしても日本人は都道府県対抗が好きですよね。子どもの学力まで(教師の指導力?まで)都道府県対抗で競わせています。

しかしよく考えてみると、それぞれ条件が違う都道府県を同じスタートラインに立たせようとすることがそもそも競争の条件を満たしていないわけで、おかしな話ではあります。

ただ、悪条件にも耐え、それを乗り越えて…みたいな話が私も含めて好きですから、そういった不平等も楽しみな一つにしてしまうのも日本人の特質なのかもしれません。

しかししかし、さらによく考えてみましょう。都道府県区分というのは、国が勝手に決めたこと。特に県境に住んでいる人にとっては、当時はとても戸惑ったようです。

千葉県に銚子商業という高校野球の古豪の学校がありますが、この学校は茨城との県境の近くにあるので、当時、選手のほとんどが、茨城の子だったのです。ということで、そこの地域の茨城の人たちは、自分の都道府県の代表ではなく、銚子商業を一生懸命応援していました。当たり前と言えば当たり前の話。

上から決められた「区分」で "応援" するのか、自分たち自身の事情で "応援" するのか…、というふうにテーマを立て直してみると、「都道府県対抗学力テスト大会」ww のおかしさや矛盾、そして乗り越え方が見えてくるのではないでしょうか?

【本】何が非行に追い立て、何が立ち直る力となるか

何が非行に追い立て、何が立ち直る力となるか
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特定非営利活動法人 非行克服支援センター 著/2013年6月/1800円+税

わが子の非行を体験した215人の親へのアンケートと、42人の元非行少年たちへのインタビュー。

非行問題に特化して多くの保護者からの相談を受け、少年たちの立ち直りを支援し続けたNPOならではの2年にわたった緻密な調査研究。

何が彼らを非行の道に進ませたのか、そして、何が彼らの立ち直る力となったのか、さらに振り返って親は本人は、当時の自分を周囲の大人をどう見ていたか、支援者に望むことは何かなど、心の扉を開いて語り明かした真実の声を解明しつつ、今日の非行問題への提起を行った貴重な研究書。

もくじ

まえがき
第1章 調査研究の目的と方法
調査研究の目的
調査研究の方法
第2章 親に対するアンケート調査の結果と考察
初めに
1 子どもの荒れ、子どもとの親の関わり
(1)幼少時の子育て
(2)子どもが荒れ始める以前の子どもとの関わり
(3)子どもが荒れ始めた時期
(4)子どもが荒れ始めた時期の対応
(5)荒れているときの子どもの行動
(6)子どもが荒れているときの子どもとの関わり
(7)子どもが荒れているときに感じること
(8)子どもの荒れのその後の経過
(9)子どもとの現在の関わり
(10)子どもが非行に走る原因について
(11)子どもについて当てはまること

2 他の家族について

3 学校の対応
(1)子どもが荒れ始めた時の学校(小・中・高)の対応
(2)学校の対応の中で良かったこと
(3)学校の対応の中で良くなかったこと
(4)学校・教師に対する希望、要望

4 司法機関や施設等に関連して
(1)児童福祉機関である、児童相談所・児童自立支援施設等について
(2)司法機関である家庭裁判所について
(3)付添人について
(4)少年院について
(5)保護観察について
(6)試験観察について

5 子どもが荒れていたときの親の状態

6 相談期間やサポート資源について
(1)相談した機関
(2)良かった期間・不満が残った期間

7 「非行」と向き合う親たちの会について

第3章 立ち直った少年に対するインタビュー
A インタビュー調査の視点と対象者の内訳
B インタビューから見る「非行」に至る背景・影響

初めにーー非行開始年齢にも触れて
1 親・家族・家庭環境に関して
(1)親の多忙・病気・死など
(2)親の浮気・離婚・ケンカなど
(3)厳しい「しつけ」・支配
(4)家族からの虐待・ネグレクト
(5)親への反抗
(6)親の期待に対する負担感
(7)きょうだい関係

2 学校・教師に関して
(1)教師の体罰と暴力
(2)学校からの排除
(3)イジメ
(4)面白くない・楽しくない授業と学校生活

3 さまざまな出会い・影響
(1)性・風俗産業
(2)薬物
(3)良くない大人
(4)友人・仲間関係
(5)大人からの裏切られ感
(6)文化的影響

C インタビューから見る立ち直りに至る背景・影響

初めに
1 親・家族・家庭環境に関して
(1)見捨てずにいてくれた親・家族
(2)親の思いに気付いた
(3)親との距離
(4)親・家族の存在があったから

2 学校・教師に関して
(1)立ち直りへの影響
(2)振り返って、教師・学校について思うこと

3 少年院
初めにーこの項をまとめるにあたって
(1)生き方を見直すことに「役立つ施設」だったという声
(2)通過点に過ぎなかったという声
(3)少年にとっての少年院

4 少年院以外の諸施設や期間
(1)調査官・裁判官・保護観察・刑務官・付添人などに関して
(2)児童福祉施設等に関して

5 その他のさまざまな出会い
(1)学校・職場・地域などでの出会い
(2)友達・仲間
(3)自分の子どもの存在
(4)異性・パートナー
(5)逮捕、環境の変化
(6)仕事・目標

6 立ち直るうえで困ったこと,妨げになったこと

D インタビューから見る過去から未来へ

1 本人から見た当時の自分・今の自分
(1)「さびしさ」「心の隙間」「不安」
(2)「反抗」「自由」
(3)「好奇心」「意思」
(4)「劣等感」「優越感」
(5)「友達」「仲間」「異性」

2 これまでの体験を振り返って
(1)自分の体験を振り返って思うこと
(2)今、非行に走っている少年たちに伝えたいこと
(3)周囲の人や社会に望むこと

第4章 明らかとなった課題・問題
アンケートとインタビューを踏まえて
(1)「人と人との出会い」の意義
(2)親・家族・家庭環境に関すること
(3)学校に関すること
(4)司法機関や矯正教育機関
(5)「更生」「支援」について
(6)当事者の視点とプロセス的な視点
(7)立ち直りを応援できる社会に

戯訓(ギクン)

2年生の算数で、九九が出てきますね。

それで、この夏休みに九九についていろいろ調べています。そしてたくさん発見がありました。

たとえば、「一日中、いつも」の意味で、『四六時中』という言い方がありますが、これは、1日が24時間であることから、(4×6=24時間)で、四六時中と言うようになったそうです。

しかしこれはそもそも、『二六時中』と言われていた言葉でした。一日の時間を「子の刻」「丑の刻」と干支の十二刻で表していた江戸時代の使われ方で、2×6=12なので、「二六」で一日中を表していたことから始まっています。それが現代の24時間になり、「四六時中」になったということでした。

数字を九九で表現する言葉遊びは、日本では昔からあるようです。それを「戯訓(ギクン)」と言います。

たとえば、「十六」と書いて「しし」、「八十一」と書いて「くく」、「ニニ」と書いて「し」と読ませるなどです。昔は、十五日、つまり満月を "三五の月" と表現していました。

九九に関するおもしろい話は、他にもいろいろありそうです。

※「戯訓」とは、上代文献、特に万葉集の用字法の一つ。漢字の字形・字音・字義などを遊戯的、技巧的に利用したもの。「出づ」を「山上復有山」、「獅子(しし)」を「十六」、「い」を「馬声」、「ぶ」を「蜂音」などと書く類。戯書。
(デジタル大辞泉より)

アンデルセン童話

2年生の2学期の校外学習は、アンデルセン公園。先日、下見に行ってきました。

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アンデルセンは「アンデルセン童話」のハンス・クリスチャン・アンデルセンの「アンデルセン」。

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んっ?最近話題の「アナと雪の女王」のディズニーアニメも確か原作はアンデルセン童話じゃなかったっけ?

他にどんな話があったっけ?あらためて考えてみると、すぐに出てこない。

人魚姫、マッチ売りの少女…、なんか、最後は悲しい物語だ。

裸の王様もそうでした!

アンデルセンからのメッセージ…、学びにすると深いかも。

2学期はアンデルセン童話を子どもたちと一緒に読んでいこうかな。

いろいろな子がいて良いし大切にされなければならないという学び

「社会性を学ぶ」といった時の「社会」の意味ですけど……、どんな考え方があるのかとか……、そういった専門的なことはわからないのですが……、 "学校は社会性を学ぶところ" 、などと言う場合、どういうふうに考えたら良いのか、というお話です。

これは学級集団づくりに大いに関係しているので、教育問題として整理しておきたいのですが、一つは、
『学校・学級にはいろいろな子がいてよい・当然許される。』
ということ。
二つ目は、
『それぞれの子は大切にされなければならないし、自分も当然大切にされる。』
ということ。

そして三つ目は、一つ目、二つ目のために、
『どう行動していけばよいのかということが、少数意見を大切にしながら子どもたちで討議討論され、実行されていく。』
ということ。

これらは授業時間だけでなく学校生活のあらゆる場で「学び」として指導されなければならないのではないでしょうか。

「無敵の人」などという言葉が流行りだすと、 "やってよいことと悪いことをもっと厳しく教えなさい" 、とか、 "もっと厳しい罰を!" などと言い出す人が出てくるのですが、子どもたち自身が学ばないと…、そしてその指導が保障されない限り、こういった課題は解決しないのだと思っています。

排除の不安を利用した管理・コントロール

日本には「そろっている(同じである)と美しい」という文化があるようです。学校生活も同様です。しかしここで気をつけなければならないのは、 "そろえる文化" は排除の不安を生み出すということ。

みんなと同じでなければ "置いてきぼり" にされるのではないか。 "村八分" にされるのではないか、 "居場所がなくなるのではないか" という不安が子どもたちや保護者のみなさんに最近特に強くなっています。

子どもたちや保護者のみなさんにこうした傾向が強くなったのは、学校制度がその不安を利用して管理・コントロールしていこうとしているからだと思います

一方、学校や職員も、実は "そろえる管理" に、間違えた方向で向かっているようです。下駄箱の靴の向きをそろえるのは、とりやすいからであって、全員の向きをそろえるのが目的ではないはず。

挨拶をするのは、コミュニケーションのスタートとしてとらえるべきであって、全員ができる・できない、する・しないで評価して良いのか?という問題も同様。見栄えや行動を「一糸乱れぬ」という目的で管理・コントロールしてはいけない……。

最近では、傘の柄の向きまで一糸乱れずにそろえる学校も出てきました。目的がよくわかりません。職員の日常的なユニフォームをそろえる学校まで出てきた。目的はなんなのでしょうか?

「くつがそろっていると気持ちがいい」「まっすぐに机が並んでいると気分がいい」「そろっている歌声は誰が聴いても心地よい」「クラスの心がそろうとみんなが幸せな気持ちになる」…、気持ちがよかったり心地よかったり、幸せな気分になっているのはいったいだれだ?ということです。

「困った子」?を生み出しているのは?

「困った子」は、教師も含めたまわりが生み出している、というお話です。

今の子ども集団…、その中身は、指導しない限り、かなり競争的・差別的・排除的。誰かを「下」に見下ろさないと常に不安な気持ちになる空気。誰かを「困った子」にしておけば自分が安心?……。

つまり集団の力関係が「困った子」を生み出しているのではないでしょうか?ということ。その子はまったく悪い子ではないということです。

競争は全ては否定しません。いや高め合いはむしろ必要。しかし、今のように、個々がバラバラにされ、仲間と不信感を持ち合い、誰かを蹴落としたり排除したりしなければ不安になるような競争はいけない。

学校生活に適応できない子が悪いのではなく、そういった子を生み出してしまった学校制度の問題にこそ目をむけていきたいと思っています。

教師の権利と実践の自由を取り戻すこと

以前、 "学校現場で、教師間のトラブルや事件が起きてくるのではないか" 、と心配する文章を書いたことがあるのですが、悪い予感は当たってしまい、ポツポツと、教師間の傷害事件等が報道されるようになってしまいました。それほど現場では教師個々が追いつめられていると言うこと……。

そして最近の心配は、いよいよ「教育実践刈り」が始まってしまったということ。

今までも、あのやり方はダメ、それを取り扱うのは疑問、といった圧力はありましたが、これからは、扱った教材によっては、「不適切」と判断され、指導の名目で処分される、ということもあり得る、ということです。

たとえば、集団的自衛権やTPP、原発について、生徒に意見を問うことも許されない……、扱うこと自体が「不適切」と判断される国になってしまった、ということです。これでは、どこかの国と同じではないかと……。

今、子どもたちのために取り戻さなければならないのは、教師の権利と教育実践の自由ではないでしょうか。

指導が権利を超えてきた現状

改悪:教育基本法第16条、17条により、教育目標を達成するために、いちいち行政が指導を入れてくる時代になってしまいました。そのことがここ数年の、異常な、そして理不尽な忙しさにつながっているのではないか、というのが先日学んだこと。

しかし、コトはそれだけではありません。行政による指導が教師の権利や実践の自由を超えるようなことをしばしば耳にするようになりました。

たとえば、年休をとりたくても(どうしても休まなければならない事情があっても)、行政が定めた研修日だという理由で認められないとか…、そういったことがあちこちで聞かれるようになったのです。

また、行政が指示した取り組みを達成するために、勤務時間を大幅に越えなければならないことが続いても、内容がどうであれ、それが当然だという考え方の広がり……。

行政が定めた…、どう考えても子どもにはわかりにくく、つまらない授業でも、それをやらなければならないとか…、逆に、目の前の子どもたちの実態から生み出した授業を、上がそういう方法は認めていないからやってはいけない、と止められるとか……。

これはいよいよ、大変な自体になってきてしまいました。

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ヨシムネ&ねね

しおちゃんマンの飼い猫、黒猫ヨシムネと ねね

ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

ねね
ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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