私は、体育館や公民館で人がたくさん集まるような会議や研修会で、空気を読まずに平気で発言します。しかも批判的な意見を……。
どうしてそんなことをするのか?できるのか?平気なのか?みんなついてくるのか?……、先日、そんな質問を受けました。
まず、間違えては困るのが、私は全く平気ではない!ということです。誰もが
「やれやれ、やっと終わると」
いった思いを持っているなかに、面倒くさい質問や批判的な発言をするわけです。相手よりも周りからの冷たい視線がとってもこわいです。つまり、それを承知して!無理して発言しているということです。
私が無理して大勢の前で批判的な意見を発言する理由は、民主主義の崩壊、独裁の始まりは、「国民・市民の声がふさがれること」で始まり、そのことで終わるからです。
「声をふさぐ」方法は、上からの圧力、まわりからの雰囲気づくり、自主規制、責任回避への誘導、と様々です。いずれにしても、声を出す者が批判的に扱われたり、面倒くさがられたりすることから始まり、さいごには、世論を背景に(背景にあるように見せて)具体的に弾圧してきます。
私の発言を後押ししてくれるのは、口には出さないけれど、実は同じ思いを持っていてくれるといった確信です。そして実際に、「言ってくれたおかげで~」といった声をたくさんもらっています。
しかしだからといって、エラソーに意見するのは違うと思います。提案する側も個人の意に反して、ということが多いし、何よりもエラソーな態度はまわりがついてきてくれません。
正義を語る時こそ謙虚に、というのはこの夏に学んだことです。そして、本当に尊敬できる人たちは、みなさん謙虚でした。私も、心から謙虚であるために、もっともっと学ばなければならないのだと最近特に思います。
勇気と確信、強さと謙虚さを持ち合わせたいと思っています。
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