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久しぶりに遠征して講座

15日土曜日、心臓で倒れてからしばらく控えていた遠征をしての教育実践講座を、福島県須賀川市で行いました。

組合主催の教研集会でしたが、組合員ではなくても、私のSNSでの書き込みを読んで、実際に話をきいてみようと、参加してくれた方もいました。ありがとうございました。

講座の内容は、まず、日本の学校現場の異常な忙しさの正体を分析してみました。

日本の学校には、統治としての国家主義(一斉に一律に)という力と、サービスとしての新自由主義(競争)の力が働いています。

この、【一斉・一律、競争】の力が日本の教師に異常な多忙化と「学校珍百景」を生み出していることを具体的な事例をあげて話しました。

そして最近では、その国家主義を超えた、憲法違反の「皇国史観」による教育が顔を出してきました。

教育勅語を利用するのはOKという内閣の閣議決定。教育勅語の朝会での朗読も問題なしという、ヤンキー文科省副大臣の発言。

子どもや女性の権利はもちろん、国民の主権を認めない皇国史観教育は、もはや一線を超えてしまったと言わざるを得ません。

皇国史観による統治は、宗教を国家が司ることになってしまうので、大日本帝国憲法でさえ憲法違反になってしまいます。そこで明治政府の役人はその教義を学校で、「道徳」として教えることにしたのです。それが教育勅語。

そういった、似たような動きの中で(国民の主権を認めない動きの中で)、特別の教科道徳がスタートすることを考えなければなりません。

こういった "主権剝奪教育" の動きに抗い、対置していくのが、学びと自治の指導を通しての主権者教育であり、私の学級集団づくりであることを話してから、具体的な実践例を話しました。

最近は、組合や全国生活指導研究協議会の実践講座でも、「若い人向け」とか言いながら、すぐにできるゲームや、なぜそういった指導をするのかを語らない "準備いらずの指導方法" ばかりを伝える講座が多いです。ある意味、「若い人」を "下" に見ていないでしょうか。

今の私たちの苦しさの背景には、どういった力が働いているのか…、それをきちんと整理して、丁寧に提起すれば、初めて参加した人にも響く話ができるはずだと思っています。

後半は、 "批判的学び" をテーマにした、道徳や他の授業を具体的に紹介してみました。

講座の準備をしていただいたみなさん、ありがとうございました。

小学校3年生まで35人学級の政策のごまかし

千葉県では、小学校3年生まで35人学級を実現しました。ところが、その分、担任以外の職員の加配が減って、高学年で、家庭科や音楽を指導する教師が足りなくなってしまいました。高学年の教師は、すべて自分で指導し、授業の準備をする「空き時間」もなくなり、悲鳴をあげています。

小学校3年生35人学級は、県知事選直前に実現したこと。選挙目当ての取り組みだったと言われてもしかたがない。現場軽視、見た目の良さを装った数のごまかし、教員をさらに苦しめる政策だったと、私は思っているのですが、いかがでしょうか。

3年生まで35人学級にするのであれば、当然職員の数は増やさなければなりません。それをやっていないのです。組合は、そこまで詰めなかったのでしょうか?

どこまで学校現場を苦しめ、追い詰めるつもりなのでしょう。

教師にフリーランスはあるのか?

復興大臣の記者会見から、「フリーランス」という言葉が広がっているようです。

私は、ドクターXでこの言葉を初めて聞きました。組織に縛られない、という意味で、フリーランスであることは自由である、という価値観があるようです。しかし、果たしてそうなのでしょうか?

教師もまた、フリーランスを名乗る教師が私の周りでも増えてきましたが、教師の仕事に、フリーランスはありえるのでしょうか?

ただ、私は、フリーランスであることを前向きに評価している一人です。

しかし一方で、教育の仕事は、協働・協同・共同であることでしか成立しない、と主張してきた私としては、実は……、フリーランスの教師であると言われて戸惑う自分もいます。

おそらく、フリーランスを名乗る教師もまた、職場では、協働・協同・共同が求められるのでしょう。

だとしたら、フリーランスであることの意味は一体どういうことなのかは、教師の新しい働き方として、今後研究されなければならないということです。

PTAは変われるのか?

今年もいくつかのクラスPTA学級役人決めで、抽選が発生してしまった。本校では、二人の役員だけなのに、それでも決まらない。

以前からこのblogでも書いているように、保護者が悪いのではなく、もはやPTAの組織が現状に合っていないということなんだと思う。

本校だけではなく、こういった傾向は全国的な問題で、PTAに登録しない、といった保護者も全国ではいくつか出てきている。

PTAの参加は任意なのでこういったことがあってもおかしくないのだが、現状では想定されていないので色々新たな問題も出てきていることも確か。

例えば、PTAでお金を、出している学校が多い卒業証書を入れる筒やケース等、PTAに参加していない家庭の子は貰えるのか?という問題。

あげればいいじゃないか!と、思うのだがコトはそう単純なことではなさそう。

その他、学校の中にはPTAが関わっていることが、予想以上にたくさんある事に気づくのである。

修正すること、作り直すことができなくなった組織は、生き残るのに苦労するのではないかと、PTA組織に関しては本気で心配している。

15日土曜日福島県須賀川市で講座

病気をしてから、久しぶりに遠出をしての講座です。

新学期のスタートと1学期の実践構想をつくろう

(期日) 2017年 4月15日(土)

13:15〜16:30(受付開始 13:00〜)

(会場)須賀川市中央公民館 ℡:0248-73-4407

(講師) 塩崎 義明 氏 全国生活指導協議会常任 千葉県小学校

第1部 学級集団づくり入門講座 13:15〜15:00
「新学期スタートと1学期の実践構想をつくろう」
  
第2部 授業づくり入門講座 15:10〜16:30
「こんなにもある学びのヒントと工夫

お近くの方は、どうぞご参加ください。

教師の忙しさの政治的な背景と、一線を超えてしまった皇国史観的教育

教師の忙しさの原因は、国家主義(一斉・一律)と、それを経済的に支えようとする新自由主義的なサービス教育(競争)にある、というのが、私の主張です。

まわりに合わせることの労力…、そして、自分だけ遅れることができないという焦りからくる多忙感。これが国家主義からくる多忙感の正体……。

そしてもう一つが……、何から何まで学校が教育サービスをいたします、という忙しさ。それを学校間競争でサービスを高めようとする動き……。

学力テスト、部活の問題しかり、見た目の評価優先の教育もその一つ。ここからくる競争的な多忙感。

このように、国家主義と新自由主義的なサービス教育、これが合体しているのが日本の教育だといえるし、教師の異常な忙しさの背景には、こういった政治的な背景があるのではないか、というのが私の考えです。

ところが最近、そんな国家主義を超えた、皇国史観の教育(日本の歴史は天照大神の子孫である天皇によってつくられてきた)がはびこってきました。そこには、国民に主権はありません。子どもや女性の権利などもってのほかという考え方……。

そんな教育は、保守の側でも否定してきた教育。今の保守でもせいぜい国家主義レベル。ところが最近それを平気で超えた、憲法違反の皇国史観的教育が顔を出してきたということです。

教育勅語を利用するのはOK、という内閣の閣議決定。教育勅語の朝会での朗読も問題なしという文科省副大臣の発言。もはや、一線を超えてしまったのでは?

もしかして、森友学園問題も、皇国史観についての話題作りのために、意図的にしくまれた事件だったのではないかとさえ思ってしまいます。

道徳が特別の教科になったことも一つのきっかけ。権力に教科書会社が忖度(そんたく)し、道徳の教科書、パン屋を和菓子屋に書き直したりしている……。言葉を書き換える…、どっかと戦争でもしてるのか、と言いたいです。

そもそもパンは戦国時代に鉄砲と一緒に日本に入ってきたもの。それに対して和菓子の完成は、江戸時代。ある意味、日本にとってパンの方が古い。パン屋さんにあやまれ!!それからこの件で悪者になってしまった和菓子屋さんにもあやまれ!!と言いたい。

皇国史観のベースは国家神道。つまり教義のある宗教。そしてそれは明治時代の役人によってつくられたもの。

当時の明治政府でさえ。宗教を国家が司ることは、大日本帝国憲法違反になってしまう。それで、その教義を学校で、「道徳」として教えることにした。これが教育勅語。

しかし実は、日本の学校の文化風習は、今でも国家神道がベースになってるのです。

儀式的行事での正面に礼……。学級目標を正面に貼ることも……、卒業式の所作も……。しかしそれは文化風習であって、生活習慣のレベルで受け入れてきたのです。ところがそれが、教育内容にまで及んできたことは大問題だということです。

親孝行をしましょう、のどこが悪い、という意見があります。別にそれが悪いと言っているのではありません。でも、そんなことで天皇陛下の手を煩わすことも申し訳ないし、国家から指示されることがおかしいと言っているのです。

それに私たちは、その親孝行の中身……、家族の問題にまで研究を進めてきたはず。

つまり児童虐待の家庭の背景、その中での子どもの権利、そういったことをすべて無視して、親孝行しろということについて、私たちは真っ向からおかしい、といわなければならないということです。

こういった、政治的・社会的な背景の中で学校現場が、今年度もスタートしたことをまず自覚したいと思います。その学びがなければ、教育実践が政治に振り回され……、振り回されていることさえ気づかぬうちに、子どもたちをとんでもない方向に教育してしまうことになるのです。

戦前・戦中の教師は、教育実践を政治に振り回され、利用され、不本意にも、国のために命を捨てる生き方が美しいと考える若者を育ててしまいました。その反省の上に、今の主権者教育があります。

私たちは、子どもたちを、平和で民主主義を最高の価値とした国をつくっていく、権利ある国民を育ていたいと思っています。国のための国民ではない。国民のための国をつくる権利ある国民を育てたいのです。

そして何よりも、今の、教師としての生きづらさや苦しさは、あなた個人の問題ではないということを訴えたい。政治的につくられたものであるということ……、だから大丈夫……、子どもの側に立とうとすればするほど、苦しいということが、あなたが権利ある子どもを育てようとしている証だと言えるのです。

最後の学年が決まって…

最後の学年学級は、5年1組でした。

38年間の学級担任歴は、下記のページにまとめてあります。

▼しおちゃんマン担任歴
http://shiozaki.blog48.fc2.com/blog-entry-2895.html

これをあらためて見てみると、本当にずっと「教室の先生」でいられたんだなぁと、感慨深いものがあります。

しかも、どの学年もまんべんなく担任できたこと…、本当に恵まれていたと思います。まだ一年間ありますが、自分は幸せ者だったと思っています。

どうして管理職にならなかったの?とか、管理職にならなかったことについて批判的な声もないわけではありませんでした。自分の好きなことをやるのは、あまりにも勝手な考えだと。

ようは、自分はそういう考え方をしなかった、ということです。ずっと教室の先生でいることの方が、 "自分勝手" どころか、ずっとずっと厳しい状況に自分を置くことになると考えた、ということです。そういった状況に自分をおくことに生きがいとやりがいを求めた、ということです。

どちらが正解なのかはわかりません。私にも、管理職になっていった仲間たちの批判をするつもりは全くありません。

来年度、再任用で担任をするつもりはありませんから、本当に今年度でやりきることになります。

あいかわらず、失敗続きのバタバタ続きだとは思いますが、学校現場に子どもたちの笑顔を少しでも増やしていければ、と思っています。

「教育勅語」の問題を遠回りして考えてみた

道徳教科書検定でパン屋さんと和菓子屋さんの表記が話題になりました。文科省は、強制的に変更を迫ったものではないということですが、教科書会社のこういった「忖度」を生み出してしまったことが問題なのです。

こういった、「どっかと戦争でもしてるの?」とまで思わせる事態は今後も続くでしょう。粘り強く、おかしいことには「おかしい」と言い続けていく必要があるようです。

さらに最近では内閣が「教育勅語」について、「憲法や教育基本法に反しない形」で教材として使用を認める閣議決定をしてしまいました。いやいやいや、教材として使用することが憲法違反のはずでは?

*****

遠回りして考えてみましょう。この問題を考えるのにはまず、神道と国家神道とをきちんとわける必要があります。

神道は地域土着の信仰から成立したもの。大地や水など様々な精霊に対する畏敬の念から発し、地域や地域有力者の氏神とされていました。そういった信仰が神道。

それに対して国家神道とは…、

教義の第一は、天皇は天照大神の子孫であり、この神によって支配者となることを命ぜられたということから始まる信仰です。

※天皇陛下の先祖である天照大神が、孫のニニギノミコトに、日本の支配者になるように述べたという「神勅」は、日本書紀や古事記にはこの内容では書かれていなくて、明治政府役人の創作だったことがわかっています。

教義の第二は、その結果、町々村々の産土神、氏神様、鎮守様と言われていた神々は、天照大神の家来ということになり、天皇は神社を祀る独占的権利を持つということ。

教義の第三は、天皇の祖先が道徳を創始し、歴代天皇がこれを継承、発展させて今の天皇に及んでいて、天皇はそれを国民に教え、国民はその教えに服従することで道徳を身につけるのだということ。

教義の第四は、天皇は神を新しく作ったり、格付けしたり、統廃合したり、邪悪な神仏を信じているかどうかを判定して、必要に応じては、徹底的に弾圧する権利を持っていること。

このように、国家神道とは "教義のある宗教" だと言わざるを得ません。それを国家が司ることは、 "当時でも憲法違反" になってしまいます。

そこで明治政府は、これらの教義を学校で、『宗教ではなく道徳として教える』ことにしたわけです。そしてその具体化された取り組みが『教育勅語』。

このように、国家神道の教義を教えることは、人権と平和、民主主義の近代国家の原理に反し、日本国憲法の規定に反します。

その結果、日本の国が、何をやらかしてしまったのかはみなさんご存知の通りで、日本はその反省の上に立って国をつくっていかなければならないはず。

反省は、自虐でも何でもないはずなのです。

旗にお辞儀する習慣はなかったはず

本市では明日、入学式です。

入学式でも、卒業式でも、壇上で挨拶する人が、後ろの壁に一礼してから話をする場所に行く習慣がありますが、あれはなんなのでしょうか?というお話。

何も考えずに、他の人がやっているからやっている人もいるのでしょうが、そういったことが思考停止を生み出します。少なくとも、日の丸君が代に反対したり、推進したりする人たちは考えるべきだと。

一般的には、後ろの壁に貼ってある旗に一礼しているのではないか、という説が一般的です。官房長官などは、明らかに旗に一礼しています。しかし私は、そもそもそうではなかったのではないか?という説を持っています。

旗にお辞儀をする習慣はそもそもおかしいわけで、旗に忠誠を誓う方法は、海軍の軍艦旗掲揚を真似たものだとは思うのですが、その時でさえ、お辞儀ではなく、直立不動であったり、敬礼ポーズだったりしたのです。お辞儀ではなかった。

では、正面の「モノ」に対するお辞儀というのはなんだったのか……。さがしてみたらあったのです。武道です。柔道でも剣道でも、「正面に礼」というのがあります。そもそもそれではなかったのかと。そして正面には、神棚があったはずです。

おそらくあのお辞儀は、神道の風習に近いものではないでしょうか。神道には旗にお辞儀ずるのではなく「正面」にお辞儀するのではないか…と。そう考えると、ステージの正面に、日の丸など貼るのは、神道的には神様に対して失礼なのかもしれません。

5年生の担任です

最後の学級担任は、150名、4クラスの、5年生です。

この子たちは、2年生、3年生の時に、担任した学年の子どもたちです。

ただし、受け持った子は少なくて、新たな気持ちで担任できそうです。

始業式での担任発表では、すごく喜んでくれて、嬉しかったです。

学級開きでは、班対抗クイズ大会をしたり、学級目標「仲間と一緒に "やるときゃやる!"」の提案をしたりして、盛り上がったり、決意を新たにしたりして、充実した時間をすごすことができました。

さあ、最後の年度のスタートです!

今日は新年度始業式

今日は、新年度の始業式です。

体育館で担任発表の後、子どもたちとの出会いの日です。

出会いの時間は、45分間。

この時間の間に、新しい教科書や、大量の配布物を配り、学級開きをしなければなりません。

移動や配布物等の作業で25分間、残りの20分間が学級開き。

この出会いをどう演出し、担任のメッセージを発信するかが最初の勝負だと思っています。

この四日間、新年度や入学式の準備に追われて、目の前の子どもたちとの出会いの指導の準備になかなか手が回らなかったのですが、よく考えると、こちらの仕事こそ私たちのメイン。

こういった準備を優先し、大切にしていくことをあらためて学年の仲間にも呼びかけました。

気持ちの余裕の無さはトラブルを生みます

異常と言っても過言ではない、現場の忙しさ。特に今は、新年度や入学式の準備で現場は大変です。

学期末、学年末の忙しさは、教師個々の忙しさですが、今の時期の忙しさは、協働作業が多いので、集団としての忙しさだと言えるのかもしれません。

こういった忙しさは、うまく回っている時は楽しい忙しさになるのですが、分担がうまくいってなかったり、リーダーに見通しが無かったりすると、トラブルになりがちなことも確か。

特に、気持ちの余裕がない時は、言葉遣い、言い方に棘が出てきます。本人にそのつもりはなくても、人間関係が壊れてしまうことも少なくありません。

気持ちに余裕のない時こそ気遣いを大切にしたいものです。自分は、よゆうのない時こそ、意図的に自分のことは後回しにしたり、相手を優先したりしてみることにしています。不思議と自分に余裕が持てるようになり、結果、仕事がスムーズに進むことが多いのです。お試しください。

授業・学びは学級づくりに拓き、学級づくりは授業・学びに拓く

右からも左からも反対されて、同意見の人は少ないのですが……、個人的に、小学校における "完全な" 教科担任制にはどうしても賛成できないのです。

それは、小学校における授業や学びは学級づくりに拓いていて、学級づくりは授業・学びに拓いていると考えるからです。

授業は授業でいいじゃないか、どうして学級づくりにこだわるのか、と言われそうですが、自主的・自治的な学級は、学力向上だけでなく、深い学びを生み出すことを経験的に知っているからです。

逆に、自治に向けた学級づくりを進めるためには、学びが必要なこともまた知っているからです。

中学校の年代から教科担任制を進めるのは、より専門的な学びが必要であることと、生徒自身が、学びと自治を分化する力があるからです。

簡単に言えば、自分の中で…、仲間との中で、それぞれを客観視して、「参考」にしながら生かしていくことができるからです。

小学生には、授業・学びと学級づくりとの距離は、まだまだ近くてもいいのだと考えているわけです。

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 塩崎義明(しおちゃんマン)の公式メインブログです。教育問題について語ります。

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 37年間千葉県浦安市の小学校現場で学級担任として勤導論などを担当。全国生活指導研究協議会常任委員。黒猫大好き。

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ヨシムネ&ねね

しおちゃんマンの飼い猫、黒猫ヨシムネと ねね

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ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

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ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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