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「学校珍百景」の発生について

「学校珍百景」の意味を考えるパート2です。

書籍「学校珍百景2」の、「はじめに」では、学校珍百景の発生について以下のように書いています。

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一つ目は、見た目や形ばかりの「良い子モデル」「良い教育」が前面に出されるようになったこと。そしてそれは、わざとらしさく見えたり、誰もが「意味がない」とわかっていてもそれを推し進めざるを得ない現実が「珍百景」になっているケース。

二つ目は、「お上」が決めたことを、子どもたちや地域のリアルな現実を無視して強引に現場に降ろし、しかもそれを、どの教師にも統一してやらせようとするので、そこに無理が生じて発生する「珍百景」やハラスメント。

三つ目は、学力テストに代表される“競争の土俵”に、学校丸ごと乗っかり、そこで発生する、様々な笑えない「珍百景」。

お気づきにように、こういったことはもはや「珍百景」などとのんきなことを言っていられない非常事態であるとも言えます。現場には、教師にとっても、子どもたちにとっても、理不尽な嵐が吹き荒れているのではないでしょうか。

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この頃から、日本の教育には、一斉・一律の国家主義的な側面と、競争を強いるな新自由主義的な側面があることを私は感じていたということです。

それが、学校あるあるとは別な、新たな珍百景を生み出すことになっているということです。

「学校珍百景」をテーマにして連載記事

まだ正式にはお知らせできないのですが、あるところで、「学校珍百景」をテーマにして、15回の連載記事を書くことになりました。

「学校珍百景」というのは、私たちのチームが書いた本の名前です。学事出版から「学校珍百景2」まで刊行されています。

そこで、これを機会に「学校珍百景」とはなんなのかをきちんと考えておく必要があると思ったので、書いておきたいと思います。

書籍「学校珍百景」の "はじめに" で、どうしてこのような本を書いたのかを次のように述べています。

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一つは、形骸化し、子どもたちからすれば「適当に合わせておけばよい」とさえ考えられている教師の指導や学校文化について、そのとらえ方・考え方をひっくり返し、そもそもなんだったのか?を考えるきっかけにしたかったということです。

二つ目は、子どもたちとの見せかけの「信頼関係」の上にあぐらをかいて、実は子どもたちが私たち教師に合わせてくれていることに気づかず、思い上がった指導をしている私も含めた日本の教師に自戒の思いを込めた、ということ。

三つ目は、子どもたちの心の底まで管理・支配しようとしている今日の教育政策について、それを笑いとばす力量がほしいと思ったからです。

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当時の私の思いを分析すると、要するに『指導とは何か』という問題について問い直したかったのだと思います。それは指導ではない、そんなことを指導だと考えているの?といったことですね。

つまり、「学校珍百景」とは、教師・学校の一方的な思い込みや誤魔化しが、よく考えると、おかしなことになっているということを指しています。そして、そのことを誰もがわかっているのに、誰も触れようとしないことのダブルな「おかしさ」を「珍百景」と呼んだ、ということです。

最後の運動会と決めて臨みました

学級担任最後の運動会と決めて臨んだ、5月27日の運動会。

前日の「集団演技(組体操)」の指導では、5,6年生の子どもたちを前に、感動・仲間・感謝を胸に、明日は臨んでほしいと、話をさせてもらう場を、若い人たちからいただきました。

当日は、息子や孫も見に来てくれました。教え子たち(5年生)が孫と遊んでくれていて、まさかこんな日が来るとは思っていませんでした。最後の「集団演技(組体操)」の演技で、見事な演技している子どもたちを見て、感動しました。

職員の打ち上げでも、話をさせていただく時間を用意してもらいました。そんなに気を遣ってもらうと逆に困るのですが、簡単にこんな話をさせてもらいました。

『日本の教育を支えているのは、私たち "名もない教師" たちであることに胸をはりましょう。それだけの仕事を私たちはしているのですから。それは子どもたちが一番よく知っています。』

運動会の禁酒

運動会が終わりました。運動会については後日また書く機会があると思います。なにしろ私自身、最後の運動会だったので。

さて、最近の運動会は、おそらく全国どこでも、禁酒だと思います。

教師はもちろん飲みませんが、保護者は、子どもとお弁当を食べる時など、缶ビールくらいは飲んでいたのでは?それが今では、どの学校でも運動会でお酒を飲むことは禁止されているようです。

これは、運動会を、「教育の場」と見る見方が主流になったからです。もはや、地域のお祭りではなくなった、ということです。

いや…、学校そのものが、地域のものではなく、国家のものになってしまったということなのかもしれません。


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「無理です」と「ムリ~」

高学年になると、さかんに「若者言葉」を使います。

「ムリ~」という言い方が、一昔前から使われるようになり、子どもたちも使います。私たち大人も使うことがあります。

さて、この「ムリ~」というのは、私たち世代が「無理です」と言うのと少し意味あいが違うことに気づきます。

私たちが使う「無理です」は、○○するのがむずかしい、行いにくい…、いわゆる『できない』の意味で使います。

一方、「ムリ~」は、「拒否します。嫌です。」の意味あいが強いわけです。

高学年は、自分とはタイプが違う人でも自分と同じ目標や夢を持っていること…、逆に、自分と似ている人でも、自分とは違った目標や夢を持っていることを知らなければなりません。そして、他者に対して、権利を認め、敬意をはらうことができなければなりません。自分がやっているから、彼もやらなければならない…と考える前に、彼の事情を知らなければならないのです。
 
高学年はこの時期から、友だちの見方、付き合い方についていろいろ考える機会が増えるでしょう。すぐに答えを出さなくてもいいと思います。大いに悩み、考えることが、子どもたちを成長させてくれると思っています。

明日、ラスト運動会

明日、学級担任として最後の運動会です。

忙しさの中で、時々忘れていました。来年も、今年と同じような風景の中で、運動会に参加できるものだと思っていました。

しかし…、最後だからといって、子どもたちに…、たとえば組体操を無理に成功させようとしたり、感動ある運動会にしたりするつもりはありません。

倒立を失敗したり、ピラミッドが上がらなかったりしても、その失敗を含めて、大切な学習だと思っています。練習の成果を発揮して、全力でがんばってくれれば、それでいいです。

そのかわり、負けてしまったときや、失敗してしまった時には、大いにくやしがってほしい。そして、そんな子どもたちと一緒になって、しおちゃんマンも悔しがることを許してほしい。

今年の運動会も、例年通り、子どもたちに会えることを楽しみに、運動会の指導をしていきたいと思います。

詩 ずっと思っていた

子どもにどんな夢を見ることができるのかを教えながら、夢が破れた子どもに寄り添うこと

「友情」を教えると同時に、時には「裏切り」や「絶交」もあることも教えること

嘘はダメだと指導しながら嘘をつかなければならなかった子どもの思いに共感すること

全て、矛盾せずに、ぶつからずに……

自分とは違った目標や夢をもつ子どもがいることを教え、自分とは違った環境に育った子も自分と同じ目標や夢を持っていることを教える

仲の良い友達とだけでなく、親密ではない仲間とも、同じ目標や夢に向かって手をつなぐことができることを教える

子どもたちと一緒に、つらいこと、苦しいことに向き合い

子どもたちの目標達成や夢実現に向けて共に苦労できる

そんな教師になりたいと、ずっと思っていた。

子どもがあいさつをしなくなったのはいつ頃から?

全国の学校で、あいさつ運動が大流行。毎朝、校長先生が校門前に立って、「おはようございます」とあいさつ運動を行っている学校も少なくない。

なぜ日本にこうも「あいさつ運動」が広がったのか。理由は、子どもがあいさつをしなくなったからだ。

確かに最近の子どもたちはあいさつをしない。子ども同士はもちろん、教師や大人に対しても、おはようございます、こんにちは、の挨拶ができない。こちらからしても無視する時もある。こうした実態は事実としておさえておかなければならないことは事実。

しかしこれを、家庭のしつけの責任、学校の生徒指導の問題と、とらえるだけでは足りないのではないかと考えている。

挨拶は、人と人との距離感の問題として考えたほうが良い。全く知らない人には挨拶は出来ない。逆に、親しすぎて距離が近すぎる仲間にも、あらためて「おはようございます」とは言わない。「よう」「おう」で済ませるか、目で挨拶するか程度。あらためて「おはようございます」と挨拶するのは、その挨拶が出来る距離感を持った相手だ。

子どもたちが挨拶をしなくなったのは、大人と子どもたち、そして子どもたち同士の距離が遠くなったからだ。ごく親しい仲間だけで交流する傾向が広がったからだ。「おはようございます」とあいさつができる距離感を持った関係を、子どもたちが失ったからだ。

そして、そういった傾向が出てきたのは、昭和30年代からの高度成長政策で、首都圏に人が集まり、三世代家族が減り、近所づきあいが薄くなりはじめてからだと言える。大人が子どもたちから奪ったのは、遊び場だけではなかったということだ。

学校への電話はいつでもつながる?

学校には、早朝5時台から、23時台まで、普通に電話がかかってきます。24時間体制で動いている警察や病院等ならともかく学校はそうではありません。にもかかわらず電話がかかってきて、しかもそれがつながってしまう。

勤務時間外の電話には出なければ良い、という意見があります。確かに筋です。しかし現実的にはそうはいかないのです。

早朝電話は、部活動の朝練習に急に参加できなくなったことの連絡が多いです。保護者の方も朝早く出勤しなければならない中で、どうしても早朝電話になってしまう事情は理解できます。

夜中の電話は、急な身内のご不幸等、どうしてもその日に連絡しなければならない事情が出てしまった時や、保護者の帰宅が遅くなり、その日に確認しなければならない事案が発生した時などの電話です。

一方、教員の過重労働が続いていますので、幸か不幸かその電話に出ることができてしまう……。

一昔前は、教師個人の連絡先を公開していたものですが、今ではほんどの学校で、教師個々の連絡先は公開禁止のところもあるし、禁止されていなくても、個人的に公開したくないといった考えを持っている人も多い。

以上のような実態の中で、早朝や夜遅くに、学校に電話がつながる図式が生まれてきているわけです。

もう、なんでもかんでも学校に報告・連絡・相談の時代は終わらせたいものです。

学校も学校で、1日連絡無しで休んだくらいであわてるような実態から抜け出したいものです。

もっとゆったりと学校とつきあえる時代になるといいな、と。


国民は「特別の教科 道徳」に期待しているのか

教育界では話題になっている「特別の教科 道徳」ですが、国民は全く興味がなく、期待もしていないのではないか?、というお話。

つまり、「特別の教科 道徳」をやれば、たとえばいじめ問題が解決するなどとは、国民は誰も考えていないのではないか?ということ。

もっと言えば、政府は、そういった国民の無関心を承知で…、そして実は本気で道徳をするつもりもなく、国家主義的な教育(国家・権力に従順でいざという時には国に身命を捧げる人づくり)を広げるためだけの目的で、今回の道徳を打ち出したのではないか、という疑い。

それにしても、しつこいようなのだが、個人的にこだわっているのが、どうして「特別(の)」という言い方をしたのか…、「特別(な)」という言い方をしなかったのか、ということ。

特別(の)教科…、格別の味…、真っ黒の炭……、もっぱらの噂……、「の」の使い方を考えているうちに、ハライチの漫才みたいになってしまうわけだが……(笑)。

「の」という格助詞は、「特別という領域の」「特別という意味合いの」といった意味になり、「特別」であることをことさら強調したり確認したりすることになる。つまり「特別(な)教科」というふうに「教科」を説明する意味とは少しだけニュアンスが違ってくる。

この件については文科省の公式の説明はなく、教科の慣行的基準(教科の免許、教科書、数値評価の3つ)を満たしていないので、議論の過程で「特別の教科」と言ったことをそのまま使っているだけかもしれない。つまり、

(1)『例外的な』の意味。

しかし文科省の内部的には、おそらく

(2)『殊の外(ことのほか)』(格別、とりわけ)という意味

で考えたいと思っているのだと。つまり、他教科よりも上位に考えている、ということである。

そもそも、国家が道徳を司るということ自体が怪しさを生み出しているわけで、そんな権力に媚びる教科書会社あたりが "パン屋を和菓子屋に自主的に変更する" といった珍百景がこれからもどんどん出てきて、国民の関心や信頼はますますなくなっいていくことが予想されるのである。

教員免許更新制の後始末

免許を更新したのかの確認や、いついつに更新をしてください等々、何度も通知が来ます。そのたびに必要書類を提出させられる……。忙しい時にまたか!!とストレスがたまります。

どうやら、更新手続き漏れにより、教員免許状の期限が切れ、失効・失職する事例が続いているようです。

そんなことは本人の責任なのだから、失効する非常識な教員が悪い、と言ってしまえばそれまでなのですが、失効・失職する事例が多発し、どうやら自己責任では済まされない事態になっているようなのです。

そもそも、教員の免許を更新させるといった悪法はいったいなんのためだったのか、ということから考え直してほしい。

当時現場からは、更新することに意義を感じない、言うことをきく教師ときかない教師とをふるい分ける悪法、現場ではそれどころではない大変な状況 等々、反対の声が強かったのですが、当時の自民党がごり押し。

政権交代した民主党政権もこの法律を見直すといったマニュフェストを守れず、今にいたっています。

今では教師の質を上げるといった、当時言われていた目的は忘れ去られ(そんなことは嘘っぱち、不可能であったことはわかってはいたのですが)、現場をさらに忙しくさせ、混乱させる要因の一つになっているのではないでしょうか。

この更新制度で、教師の力量が上がったというのなら、それを証明してみろ!!と言いたい。むしろ逆だろ、と。

いったい今は、なんのために更新させられているのでしょうか。

連絡帳の返事

連絡帳の返事を赤で書いている人がいるのでしょうか。少なくとも私の周りにはいないと思います。

書かれた保護者からしたら、添削されているような感じにもなるし、赤い字で手紙を書くのは失礼にあたると、若い頃先輩に教わりました。

ただ、教師は教室では赤いペンを持っていることが多いことは事実。忙しい時など、どうしてもそのペンで返事を書いてしまう気持ちもわかります。欠席連絡への簡単な一行返事だったらいいのではないかと。

私も含めて、連絡帳の返事を書くのに、赤いペンを黒に持ち帰るくらいの余裕は持ちたいものです。しかしそんな余裕もないのが、リアルな学校の実態であることもまた事実なのですが。

※それよりも、字が汚いことが、相手に対して失礼だと、いつも申し訳ないと思っています。

唯一の後悔?

今年度で、38年間の学級担任生活を終える予定。

唯一自慢できるのは教師になってから今日まで、ずっとずっと日刊通信を書き続けてきたこと。

当時は、ガリ版。やがてファックス印刷、ワープロ、パソコンと、時代の流れの中で作り方も変わっていきました。

いや、実は……、38年間のうち、四ヶ月だけ、発行しなかった時期があるのです。これが唯一、悔やまれること。

それは、教師二年目で、1年生を担任した時のこと。当時のベテラン女性学年主任から、お願いだから日刊の通信はやめてくれと言われました。出してはいけない理由は、他のクラスの保護者が不安になるから。特に一年生はそういったことに配慮しなければならない、と。

もちろん私も私見を述べたのですが納得してもらえず、2学期からなら発行しても良い、という約束をとりつけて妥協しました。

その判断が正しかったのか、正しくなかったのか。今も判断できずにいます。出せなかったのも心残りですが、それが正しかったのかどうかの答えを見いだせていないことにも、いまだにモヤモヤしています。

そして、当時は、今にも増して教師としての力量もなく、脇が甘い文章ばかりで、保護者の皆さんや管理職からも批判ばかりされていた記憶があります。

それでも書き続けてこられたのは、子どもたちの笑顔を届けたい、教師の思いを届けたい、ということだけだったのかもしれません。

そして、ご迷惑をおかけしてしまったみなさんにこそ、支えられていたのかもしれないと、日刊通信は出さないでくれと言っていた先輩方も含めて、感謝しています。

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ヨシムネ&ねね

しおちゃんマンの飼い猫、黒猫ヨシムネと ねね

ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

ねね
ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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