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自分は朝型

私は早朝5時台に出勤しています。自分は朝の方が仕事がはかどるからです。そして体調のこともあるので、放課後は早目に帰宅することにしています。

それでも月の超過勤務時間は、軽く60時間を超えます。それでも仕事が終わらないときは、その超過勤務とは別に休日出勤もします。

平日は早く帰る私に対して、最近は子どもたちからも、「しおちゃんマンは、若い人たちに仕事を押し付けて先に帰る」と言い始めました。<苦笑>(当たっている部分もあるのですが…)

おそらく、保護者の皆さんがそんな話を子どもたちにもしているのでしょう。なにしろ、夕方の五時台に学校に電話しても、すでに帰ってしまっているのですから。本当に申し訳ない。

保護者の皆さん、そういった事情なので、電話が通じるのは、私の場合早朝です。ジイジなので、どうしても早起きになってしまいます。お許しください。

忙しいの(も)教師が悪い?

日本の教育はけっしてうまくいっているとは思っていません。しかし…、そのことを、戦後一貫して「教師の質」の問題としてのみ決めつけ、うまくいかなければいかないほど、その教師に無理難題を押し付けてきたのが戦後日本の教育体制だと考えます。

教師は悪くないとは言いません。だからこそ多くの教師は、それこそ、けなげに "上からの" 教育要求に応えるように努力してきたのです。しかしここにきて、その無理がたたったのでしょう。ここ十年で、教師の精神的疾患が急増し、命を落とす仲間も出てきました。

最近の教師の、こういった多忙化は「異常」だとこのブログでも表現してきました。文科省まで、さすがに「これはどうにかしなければならない」と言い出しました。それほど異常なのです。

ところが、教育委員会の学校訪問(都道府県教育委員会が現場を指導する取り組み)で、その一番のお偉いさんから、

『6時までにすべての仕事が終わらないのは、その教師の責任』

『遅くまで残っているのは、その教師の仕事のやり方が悪いからだ』

と、「それをあなたが言っちゃダメでしょ!!」という、信じられない発言があったと報告を受けています。

ついに教育委員会は、『忙しさ』まで、教師の質の問題にすり替えてしまいました。(いつから6時が退勤時間になったんだ?このことも疑問。)

たとえば、遅くまで残らなければならなかったのは、その日の学校訪問の準備のためであったことを知らないわけではないでしょう。細かな指導案作りや、様々な書類を、不備が無いように確認して提出、校舎内の掲示環境の整備…、エトセトラ。子どものことは『扨置き(さておき)』、その学校の職員は努力してきたのです。

あなたたちが来るっていうから、夜遅くまで仕事をしてきたのに、その訪問で、遅くまでやっているのはダメだ、などと、目の前で平気で発言できる神経がよくわからん。だったら、そんな学校訪問はやめてしまいなさい!!と言いたい。

私流にいえば、そんな訪問のための準備よりも、子どもに目を向けるのが本筋。そんな私の意見は苦笑いされて終わってきましたが、そこまで言われたのなら、本当に今後いっさい "特別な準備" などしなければいい。

わかってない…、本当に上は何もわかっていない。

いや、わかろうとしない者が「上」になっていくのだろうか。

自習にしての研修

やっぱり、子どもたちを自習にしての、今の新採研体制っておかしいと思う。

私たちは、子どもたちから学ぶっていうことの多さと大切さについて、もう一度再確認する必要があります。

その大切な時間を削って、上からの研修ばかり課して良いのでしょうか。

そして何よりも……、自習にしないで補充がつくといっても、それが本当に子どもたちの学習を保障していることになるのでしょうか。

文科省、都道府県教委は、再考をお願いしたい。

「プール開き」とお清め

天候にはなかなか恵まれないのですが、水泳指導がスタートしています。

さて、学校の「プール開き」でも、塩やお酒で清めの儀式をして、安全を祈願する風習があります。学校によっては、神主さんを呼んで、本格的にお払いをするところもあるようです。

このように、日本の学校の儀式や風習は、神道からのものが多いのです。

塩とお酒は、水の神様へのお供え、という意味と「お清め」という意味があるようです。

塩がどうして「お清め」に使われるのかというと、私の記憶違いでなければ、海が罪やけがれを浄化する場であったからだったと思います。つまり、海からとれる塩も神聖なもので、万物を清める浄化力があるのだと。

ちなみに、仏教には「塩」で清めるといったことはしません。にもかかわらず、仏教のお葬式でも「塩」で清める習慣があるのは諸説ありますが、神仏習合による日本人らしい発想なのかもしれません。

お酒は確か…、たとえば、八岐大蛇を退治した時に、お酒が使われたように、お払いする意味があったと思うのですが、未確認です。

プール開きのお清めの式次第を調べてみました。

公立学校において、こういった行為が憲法に違反しているのか、それとも、宗教ではなく、風習・文化としてとらえるのかについては意見が分かれるところです。

ちなみに本校では、ここまではやっていません。

1) プール前に机か台などを設置し、お酒、塩を置き、一同整列しますが、一同がプールが見えるように並びます。

2) 校長先生など代表者が台の前に立ち一礼し、心の中で「はらいたまえ、きよめため」ととなえ、塩と水を適量プールにまき清めます。

3) 一同で黙祷し安全を祈ります。 (一同で二礼二拍手一礼で拝礼してもよいです)

4) 場合によっては、一同で机の上の清酒で乾杯し、塩を肴にします。

5) 一同退出。

仕事量を減らさないと意味がない

6月23日の讀賣新聞によると、中教審は教員の長時間労働について、年内に緊急対策をまとめるということ。

一方で、各地で独自の改革も進んでいるようです。部活動の朝練禁止や、夜間の電話に対して留守電設定ににしたり、退勤時間を早める「ゆとりの日」を作ったりする取り組みが紹介されていました。

しかし私が思うに、教師の仕事量を減らさずに、勤務時間だけ短くしても意味がないのでは?と思うわけです。朝練の禁止はともかく、留守電設定にして残業、ノー残業デーも形骸化、というのが現場のリアルな実態です。

職員の数を増やして、教師が一人当たりが指導する子どもの数と授業時数を、欧米並みに減らすこと、そして説明責任のためだけの形ばかりの仕事をなくすこと、一斉・一律の教育をやめること、それらの改革を進めないと、結局は何も変わらないと考えます。

このままでは、公立学校離れがますます進み、その原因を教師の質とだけ決めつけ、日本の公教育は解体していくような気がして、危機感を持っています。

「特別の教科 道徳」では「芯」まで話し合えない?

道徳の研修会で、県教委の出している、資料ビデオと、その資料を観ての、模範となる授業展開をみせてもらいました。いや、模範の授業ではなく「展開例」だ、と言うのでしょうが、教育委員会が作成している時点で、現場では模範としての授業だととらえます。

資料ビデオは、一人の男の子をからかい、最後は「ノリ・ゲーム」と称して靴をかくす二人に対して、一緒にいながらそれを止められなかった主人公が悩みます。最後は、兄の意見を受けて、靴隠しをした二人に、正直に話をして謝ることをすすめ、自分も一緒に謝る、といったストーリー。

それに対しての授業例は、勇気を出して止められなかった自分について悩む主人公の気持ちを追うもので、四年生の子どもたちにとっては、(失礼ながら)「先生はわかりきったことをしつこく聞いてくる」と感じているに違いないと思いました。これでは、国語の読み取りの授業だと。

私としては、靴を隠した二人の「ノリ・ゲーム」とはなんだったのかをぜひ聞いてほしかった。「ノレない仲間は、どう扱われるのか」ということについても、自らの経験も含めて話し合ってほしかった。

ちなみに世間には、無関心層を責める傾向がありますが、無関心層が勇気を出して声を上げるためには、何が必要なのかを、道徳の時間以外で、生活指導として指導していきたいとあらためて思いました。「道徳」だけではダメだと。

二義文再び

木曜日の学習参観で、久しぶりに「二義文」の授業をしてみました。

2009年に行った授業は以下です。
http://shiozaki.blog48.fc2.com/blog-entry-581.html

二義文とは、二つの意味を持つ日本語の意味です。

実践女子大学文学部国文科教授の、山内博之先生が研究されていて、私が、山内先生ご本人の了解を得て、高学年向きに教材化した授業です。

たとえば、

〇先生にあやまってほしい。

という日本語は、「先生に対してあやまるべきだ」という意味と、「先生が私たちにあやまってほしい」という意味の二つがある、ということです。

私が考えるに、こういったことがあるのは、ある意味、日本語の弱さでもあるし、一方で、だからこそ、日本人の、相手の思いを推し量ろうとする気遣いや、今流行の「忖度」する心を生み出したのかもしれないと思うわけです。

さて、最近の子どもたちの傾向として、何度か聞き返してみないと、何を言いたいのかわからない…、ということがあります。これは、高学年でも、中学生でもそういった傾向があると思います。

この原因は、主語をつけて話さない、ということと、助詞の使い方が間違えている、ということがあります。

助詞の使い方については、間違えていなくても、ご承知のように、助詞には多様な意味があるので、そのことについてあらためて学び、生活において意識して使用していかないと身につきません。それほど日本語は難しい。

その日本語の難しさや、ある意味、おもしろさに、子どもたちに気づいてほしいというねらいをもった授業が二義文の授業です。

ちなみに、日本語の難しさを、先人たちは、「対話をストーリーとして把握する(言葉としてのみ把握しない)」「相手の言いたいことを推し量る(そこまでできるおつきあいを大切にする)」「阿吽の呼吸を大切にする(あらためて言葉にしなくても行動できる)」で、乗り越えてきたのだと思います。しかし、人と人との関係が弱く・薄くなってきている現代では、なかなかそういったことができにくくなってきています。

日本語を正確に使用できることと、複雑な日本語環境の中で、主語がなくても…、助詞に多様な意味があっても理解できるお付き合いも、同様に大切にしていきたいものです。(主語がなくても、助詞の使い方を間違えていてもよい、ということでは全くありません)

(*ᴗˬᴗ)⁾⁾


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道徳の評価

『特別の教科 道徳』の評価は、どうやら、通知表に文章でするようになりそうです。

ただ…、今の時代、通知表に書かれる文章は、主任や管理職によって、何度もチェックされ、たくさんなおされる教師は、チェックが終わったときには、もはや自分の文章ではなくなっていた、などという笑えない笑い話があります。

このように、現実的には子どもを直接見ていない管理職がチェック・修正するのですから、今回の道徳の文章評価も形骸化してしまうことが予想されます。

そもそも、権利ある子どもが持っている価値や意見を、 “国家の役人としての教師” が評価できるのか、という問題があるのですが、それでも、その時間の学びについて教師が所見を述べるのだとしたら、それは通知表ではなく、その時間ごとに行われるべきだと考えています。

つまり、子どもが書いたものに対する「赤ペン」や、日常的にやりとりしているノートなどの返答の書き込みが、評価・所見になるべきではないかと。

修身を経て?

先日、道徳の研修で、講師から次のような話があったと報告されました。

「わが国の学校における道徳教育は、戦前の修身、戦後の特設道徳を経て、今後は『特別の教科 道徳』が担う」

いやいやいやいや、「~経て」ではないと思うのです。あやまちや反省をふまえて、でなければならないのだと。

しかし、上記講師がおっしゃるように、反省どころか、 “修身時代からの念願をかなえる” 、みたいなスタンスで進めようとするから、今の時代に合わないおかしなことばかり起こしてしまう……。パン屋さんを日本の伝統ではないみたいな動きをしたり、お辞儀の仕方を国中で統一させようとしたりする……。

日本のお偉いさんは、子どもたちに皇国史観を学ばせその「教え」通りに教育すれば国が治まる、と本気で考えているのでしょうか。……、本気で民主主義を発展させることができると思っているのでしょうか?本気で平和な国づくりができると思っているのでしょうか?

教師はえらくなんかない

教師は、いつまで、自分の言うこと、学校で決めていることが絶対に正しい、子どもや保護者はそれに従うべきだ、などと考えているのでしょうか。

いや、そんなことは考えていない、とほとんどの教師は言うのですが、最近の日本の学校は、 “日本国家立学校” ですから、国の指示を子どもたちや保護者に伝える、教育するのが学校の役割だと考えている教師は、どうしても、言うとおりにしてほしい、言うとおりにするのが当たり前、という思いがどこかにあるのです。

教師はえらくなんかないのです。

もっと謙虚に、子どもたちや保護者の声に耳を傾けましょう。

間違いや失敗には素直に謝るべきです。

そして、失った信頼を取り戻すために、精一杯努力するべきです。

私も失敗ばかりですので、償いと信頼回復のために、必死な毎日です。

子どもの考えをどんどん言わせる環境を

特に道徳の授業の話です。ただ、他の授業も同様に考えています。

私が道徳の授業でイメージしているのは、一つの価値について、子どもたち一人ひとりが、どんどん自分の考えを述べ合っていく……、という授業です。

『手品師』の終わり方についても、果たしてあれがハッピーエンドと言えるのか、ハッピーエンド…、そして感動するように終わらせているのはなぜかを、どんどん意見してほしかったということです。

しかし、そのためには、人数が多すぎる。この授業のイメージでは、20人、多くても25人。

そこで、40人近い学級では、グループ討議をさせるのですが、ワンクッション置くと、どうしても討議が薄くなる。テンポも悪くなります。

アクティブラーニングが、形骸化し、うまくいかなかったのは、それに見合った学習環境が日本にはなかった、作り直そうとしなかった、かけ声だけではだめだ、ということだったのだと思います。

教師の働き方改革を

この10年間に、教師の働き方の改革をしていかないと、日本の公教育は崩壊します。これは間違いない。

そのことを考えるために、まずは教師の勤務について考えてみましょう。

一つは、「休憩時間」がないこと。給食指導の時間も含めて子どもたちとずっといるわけですから「休憩時間」という概念がないのです。休憩せずに大人が子どもと接している……、このことについてもっと「恐ろしさ」、危機感を感じなければなりません。

体罰や、その他の不祥事も、このこととは無関係ではないでしょう。

二つ目は、勤務時間のほとんどが、子どもといるわけですので、会議や事務処理、指導の準備時間は、別の時間(勤務時間外)にやることが当然になっていること。これでは当然、超過勤務になる。

勤務時間内に、子どもの指導も、会議も、事務処理も、指導の準備もできるような「働き方改革」をしていかなければなりません。

三つめは、上記の中で、説明責任、危機管理のための事務処理の割合が多すぎる。時間のメインは、子どもの指導とその準備にあてなければなりません。

では、具体的にどうしたらよいのでしょうか。

まずは、職員の数を増やすこと。教師一人当たりに指導する子どもの数をできる限り減らしていくこと。そのことをベースに次のことを考えていかないと先に進めないのだと思うわけです。

メールマガジン「教師教育を考える会」

「教師教育を考える会」(代表・石川晋)のメールマガジンに、原稿を書かせていただくことになりました。

3月30日までの発行だそうで、その最終号に書かせていただきます。

まさに、定年退職直前の原稿ということになります。

無料登録は、以下のサイトから。

※最新号がこのサイトから読めます。発行についての詳細が書かれています。

登録・解除 http://www.mag2.com/m/0000158144.html


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ヨシムネ
ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

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ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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