2018/06/01
前思春期からの学級集団づくり
~全生研全国大会神奈川大会「小学校高学年の集団づくり」分科会基調~●「安心できない "安心空間" 」の中でしか…
今年の4月、東京都江東区の区立中3年の少女(14)が友人宅から現金1000万円を盗んだとして、窃盗容疑で逮捕。少女は「同級生から仲間はずれにされているようなストレスを感じていた」と供述しているという。あまりにも悲しすぎる事件である。
高学年以上の今どきの子どもたちや若者(もしかしたら大人の集団も)次の3つの関係の中で生きづらさを感じていると言える。
【上下関係】
今の子どもたちは、正しいことよりも、強い力に従う傾向がある。権力・暴力主義、権威主義は、それを支えるものによって成立していると言える。その中でパワハラ・いじめ迫害問題は当然発生してくる。
【嘘芝居関係】
「嘘芝居」というのは、特別の教科道徳への批判として利用した私の造語。本音を隠していることをお互いに了解した上で、その関係性を保とうとすること。お互い嘘だとわかりつつ付き合うので、かげでの悪口、トラブルが発生する。今の子どもたちは、表に出るトラブルは面倒くさい、ダサい、かっこ悪いと考える傾向があり、それも「嘘芝居」の関係を生み出す原因にもなっている。そして、問題が起きても、根本的な解決には至ることはない。
【キャラ設定競争】
子ども・若者集団には、「安心できない "安心空間" 」がある。子ども・若者たちは、皆それを「しかたないこと」「その中で生きていく力こそ『生きる力』」だと考えているふしがある。「安心できない "安心空間" 」とは、
[1] 何でも話せる、と紹介できる仲間がいる。たとえ、その仲間に何でも話せなくても……。
[2] いじる対象がいる。または、自分がその対象になっていて、ある意味、居場所になっていることがある。
[3] その仲間集団の外部に、共通の批判対象がいる。または、いつ自分がその対象になるかわからない、という不安もある。
「安心できない "安心空間" 」では、無理にキャラを起てたり、強い・多数の意見に合わせなければならないしんどさがある。そして、そのキャラがたてられない者を攻撃することがあるのである。
●「安心できない "安心空間" 」に依拠する
私は「安心できない "安心空間" 」を「悪い関係」だと全面的に否定しているわけではない。前思春期の子どもたちにとってはむしろこういった空間があることは『自分くずしと、自分づくり』のために必要である。また、自分を守るための「シェルター」として無意識に必要としていることも少なくない。まさに子どもたちにとってある意味『安心空間』なのである。
実践的には、とりあえずこの「空間」(仲間関係)に依拠しながら、その内部の関係を問うことが必要だと考えている。具体的には、たとえば……。
(1) そのグループそのものを一つのサークルにすることを働きかける。「〇〇の会をこのグループでやってみない?」とか、「君たちで学年全体に呼び掛けて、ドッジボール大会を主催してみないか?」等々。
(2) グループ内で、たとえば「公開回覧ノート」に取り組み、自分たちの関係や情報をオープンに語れる関係を少しずつつくる。
(3) 気になる子が出てきたときには、メンバーには内緒でそっと様子を聞いてみるなど、仲間関係に依拠しながら個別的対話を行う。
学級内クラブや自主的行事の主催により、そのグループの関係が、準公的な組織になり外に開かれる。内部の力関係を他の人たちも知ってもらうことやコミュニケーションの量が必然的に増えることで、より広い視野で自分たちを見ることができるのである。
いずれにしても、教師もまた、同じ時代を生きる仲間として子どもたちに向き合えるのかがキーワードになってくる。
●高学年の荒れと中学年までの「指導虐待」
高学年になり学級崩壊を起こす学年・学級は「中学年までに過度な管理され、子ども自身も『学校スタンダード』にこだわり、必要以上にピシッとしていた」という報告が多いことの原因についてここ数年こだわってきた。
その原因の一つ目は、高学年になるまでルールやマナーを自分達で考えたり作り替えたりする事が許されてこなかったことはもちろん、それを「教師との関係の中」でしか与えられてこなかったことがあげられる。新しい自分づくりや仲間との出会い直しが必要になる高学年において、その力を育てられてこなかった子どもたちが、学校・教師への反発・反抗という形でそれを成そうとするということである。
二つ目は、多動的な行動を示す、発達の凸凹のある子どもたちを無理に押さえつけることで二次障害を引き起こし、反抗的・暴力的な風を学級内に吹かせてしまうこと。
そして三つ目に、幼児期から中学年の指導において冷淡な指導が続けられることによって、発達に凸凹がなくても、多動的、または極端に無関心な子どもたちが育ってしまうことをあげておきたい。
暴言を浴びせり、侮辱したり、冷酷、冷淡な接し方をしたりすることは虐待である。だとしたら今、日本の全国の学校で「指導」と称して学校による子どもへの虐待が行われていないだろうか。一斉行動を強い、できた時には「アメ」を与え、逆にそこから少しでも外れると、強く叱責したり、冷たく突き放したりして「できるように」させる……。そして、何度繰り返してもできない子には、保護者の責任にしたり、発達の「障害」だと勝手に診断したりする……。
小学校中学年まで「きちんとさせてきた」学年が、高学年になって荒れる傾向があるのは、こうした学校の、「調教を超えた『指導虐待』」による、「集団的な二次障害」が原因だと考えている。
だとしたら、高学年の生活指導・集団づくりの課題は明らかである。教師と子どもたち、そして子どもたち同士の中に「安心と信頼の関係」を取り戻し、自治の中で、子どもたちの「新しい自分づくり」を支援していくことである。
●「裏文化」を大切にしつつ
子どもたちの関係の中には表には出てこない(出そうとしない)トラブルがある。SNSによる陰口や仲間外しが重大ないじめ迫害問題に発展することも少なくない。そういったトラブルを「見る」ための手だてと指導の切り口を考えてみる。
SNSに限らず、教師が子どもたちの「裏文化」でのトラブルを見るための私の基本的なスタンスは、「裏文化」の問題を安易に「表」で解決しようとしないことである。
一方、矛盾するようだが、「裏文化」の問題を「表」に出してみんなで話し合うことを見通すことである。ただこれは「表」で話し合わなければならないしっかりとした理由と当事者や保護者の同意か必要であることは言うまでもない。
具体的に大切にしたいこと五つ。
(1) 歪んだ「裏文化」は理不尽な管理と支配が生み出すといったスタンス。ゆえに当然、「裏文化」への働きかけと同時に、理不尽な管理と支配への働きかけや学びも大切。
(2) 「ロビー活動」と呼んでいる休み時間などでの子どもたちとのプライベートトーク。子どもとのおしゃべりは、授業と同じレベルの重要な実践場面。ここを軽視していると、見える場面も見えてこなくなる。
(3) 子ども一人ひとりと担任とをつなぐパイプがあること。たとえば、相談ノート、個人ノート等々、いわゆる子ども一人ひとりとつながるスキルを持つこと。
(4) 定期的に教師自身が学級地図を描いて子どもたちの関係を分析してみること。
(5) 「裏文化」は学級を超える。職場や保護者・地域に学びを広げる構想は当然持っていなければならない。
最後に、誤解を恐れずに書くと、子どもたちの「裏文化」をなんでもかんでも学校・教師が介入し、管理しようとするのでは子どもたちは育たないと考えている。子どもたちの「裏文化」についての私の問題提起は、下記のブログを参照してほしい。
▼子どもたちの裏文化に介入してはならない[ 2013/11/17 ]
http://shiozaki.blog48.fc2.com/blog-entry-2125.html
▼そもそも子どもの「裏文化」は健全なものでした。[ 2013/11/18 ]
http://shiozaki.blog48.fc2.com/blog-entry-2126.html
▼新刊「学校珍百景」"はじめに"の下書き[ 2013/12/15 ]
http://shiozaki.blog48.fc2.com/blog-entry-2154.html
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