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どうして「特別な教科 道徳」じゃなくて「特別の教科 道徳」なの?(チコちゃんにきいてみた)

どうして…、「特別教科 道徳」じゃなくて、「特別教科 道徳」なの?

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「道徳」は、他の教科に比べて一番、偉いから~!……と文科省が考えたから~。
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ここの「の」という格助詞は、「特別という領域の」「特別という意味合いの」といった意味になり、「特別」であることをことさら強調する「の」。

「格別(の)」「とっておき(の)」の使い方の「の」と同じ使い方

(1) 教科の慣行的基準(教科の免許、教科書、数値評価の3つ)を満たしていないので、『例外的な教科』の意味。

そして、文科省が特に言いたかったのは。

(2)『殊の外(ことのほか)』(格別、とりわけ)という意味。

つまり、「道徳」は他教科よりも上位の(偉い)教科、という意味。

※諸説あり

#チコちゃんに叱られる!

扇風機と一年間お別れ



ヨシムネ君、仲のいい扇風機君とは一年間お別れです。

来年、また元気に会えるといいね。

#黒猫


「高御座(たかみくら)」が京都から東京へ

天皇陛下の即位儀式の準備として「高御座(たかみくら)」が東京に移動されてきたことが報道されました。

新天皇即位の年を迎えるにあたって、学校現場でも様々な「儀式的行事」が進められる可能性があります。教師は中立の立場で、科学的、歴史的に指導する必要があります。

天皇は即位の儀式のときに、仏教の真言の儀式に基づいて「灌頂(かんじょう)」をし、印をむすび、真言を心の中で唱えつつ、高御座に登ります。

えっ?天皇家の儀式は神道ではなかったの?と思うのですが、そもそも天皇家は、聖徳太子以来ずっと仏教徒だったのです。四条天皇から孝明天皇までの700年間、天皇家の菩提寺は京都の泉涌寺。歴代の天皇の位牌もこの寺に納められています。そして、天皇家の行事のほとんどは、仏教行事だったのです。

(確か天皇家の中にはクリスチャンの方も数人いらしたと思います)

一方、天皇の地位の象徴、鏡・剣・玉の神器をはじめ、巫女さんがふる鈴、神社の縦長の幡という旗…、これら全て『道教』に源泉があります。

つまり国家神道の時代に "神の子孫" であると教えられた天皇家は、『仏教』から強い影響を受けた儀礼『道教』から強い影響を受けた儀礼とを持っているということになるのです。

学校教育との関係については、過去に下記のような記事を書きました。特別活動の授業を担当することになったことと、即位の儀式もあるので、後日もう少しわかりやすく書き直してみたいと思っています。


儀式的行事(1)
https://shiozaki.blog.fc2.com/blog-entry-3403.html

儀式的行事(2)
https://shiozaki.blog.fc2.com/blog-entry-3404.html

儀式的行事(3)
https://shiozaki.blog.fc2.com/blog-entry-3405.html

さあ明日から後期授業だ!!

さあ、明日からいよいよ後期の授業再開です。

都留文科大学では、毎週月曜日。

千葉大学では、毎週木曜日と金曜日です。

小学校の時と比べて、授業の準備に集中できる分、授業に対して厳しくなったと感じています。

どうしたら学生さんたちがことらを向いてくれるのかと、いつも考えています。

毎回細かな仕掛けと工夫をしているつもりです。

でも、ウケをねらってはいけない。

リアルな話を誠実に伝えること、それが一番だということが前期で学んだことです。

後期もよろしくお願いいたします。

「学校が楽しい」ことを大切にして学びを構築していこう!!

学力テストが生活環境のアンケートとセットで行われていることが以外と知られていません。

さて、ある学校であった本当の、ありがちなお話。その学校の「生活環境アンケート」で、「学校が楽しい」という項目が全国平均よりもかなり高かったそうです。しかし一方で、「授業はつまらない」という項目も全国平均よりも高かったとか。

ところがこの学校……、「学校は楽しい」といった結果は無視して、「授業がつまらない」という結果に敏感に反応。様々な研修を教師に課すことにしたそうです。

日本の学校は「学校は楽しい」と多くの児童が答えていることになぜ注目しないのでしょうか。どうして「授業はつまらない」の方にばかり目を向ける傾向にあるのでしょうか。

一つは、日本の文化風習が、盛り上がっている空気よりも静かに落ち着いている方に "気品のある高い価値" を見出す、ということがあります。それにより「楽しい」というイメージが、悪くはないが "はしたない" イメージを持つことがあるのでしょう。しかしそれよりも問題なのは……、

二つ目は、成果が数値に表れない(と考えられている)、「楽しさ」よりも、『学力』というすぐに数値に表れることにつながる "授業のあり方" について敏感になっている、ということです。この傾向はここ数年、特に顕著です。成果を数値化することが文科省の一つの方針になったからです。

三つ目は、「楽しさ」が生み出す信頼関係や子どもの自治、そして学びに対する "関心意欲" があいかわらず大切にされず、繰り返し学習、ドリル学習によって向上するといった狭義の学力観が未だに学校には主流であるということ。それは「教師に研修を課す」という発想も同じです。

日本の学校が、 "長い時間をかけて繰り返して覚える(考え方も含めて)" 、といった発想から抜け出さない限り、AI時代に生き残る国をつくっていく、権利ある自由な発想を持った人間を育てることはできないでしょう。

「美談」にご注意を

感動する物語……、「美談」が意図的に作られる時代に注意しなければならないと思っています。

「美談」は人の心を操ることができるからです。

そこに感動しない者を排除する力があるからです。


国民が今、どんなことに感動するのかにも注意を払わなければなりません。

くれぐれも、命を投げ出し、失うことを「美談」としてはいけないのだと思っています。

国や組織のために身を犠牲にする話にも注意。


ちなみに、特別の教科道徳の教科書には「美談」をねらって掲載した物語がけっこうあります。

ところが、けっこうすべっているものが多いことも事実。

感動を誘ったつもりが、子どもはけっこう冷めていたり、馬鹿にさえしていたりすることもあります。

子どもたちはもちろん、国民をなめてはいけない、ということだと思います。

「担任をかえてほしい」という批判から考えたこと

「担任をかえてほしい」と子どもに相談されて困っていると、担任補助(講師)の方から相談される件が2件ありました。それぞれ県外の別々な市町村の学校の講師の方からです。今は全国的に子どもたちと担任の関係の矛盾が吹き出す時期なのかもしれません。

まずは、子どもたちがそういった相談をしてくれる関係をつくれていることに敬意を表したいです。担任に言えないこと、親にも相談できないことの受け皿があることは子どもたちにとって良いことだと思いました。

さて、担任交代の件ですが、理由は、話を聞いてくれない、すぐに怒鳴る、話が長い、自分の失敗をごまかす・謝らない、授業がつまらない、きまりを押し付けてくる、他の先生の前だけニコニコしている……、不思議なことにこういったことを言い出すのは、高学年の女子からが多いです。

女子は男子に比べて、小さい頃から学校では良い子でいることを期待されて生活してました。その分、担任に対する期待度、依存度が強いのかもしれません。高学年になると、そんな自分を崩そうとすることと、期待に応えてきたことそのものに疑問が出てくる時期なのだと思います。

また女子は、小さな私的グループの中でコミュニケーションが進んでいることもあります。批判がそこでたっぷりと話し合われているということです。ゆえにそんな相談があったら、担任批判は子どもたちが自立し、自治するチャンスだと考えたほうがいいと思っています。

批判でなく、自立・自治の方向でアドバイスしてみたらどうでしょうか。異議申し立てができることを評価しつつ、担任に頼らない自分たちの学校生活をつくっていくためにはどうしたらいいのかを一緒になって話し合ってみればよいのではないでしょうか。

大切なことは、子どもたちの異議申し立てを大問題、そしてやっかいなこととしてとらえないことです。そしてそのエネルギーを前向きに変えていくことだと思っています。ただ……、そもそもそういった発想ができる担任は批判されない、といった矛盾があることも事実です。

小学校は子どもは担任は選べません。たった一人の大人に一日中従わなければならないこと、従っていることを「不思議」なことだと考えてほしいです。

教育は共同作業です。一人の担任が指導する発想から、共同で指導することを意図的につくっていかないと「多様な価値観の時代」に日本の公教育は生き残れないでしょう。

情報提供と授業とは違う

最近学校で、お金を払って外注授業をしてもらう取り組みが目に付くようになりました。

本来授業をする場所の学校が、お金を払って外部に授業をしてもらうといったこと自体が「学校珍百景」なのですが……。(笑)

この外注有料授業を参観させてもらう機会が何度かあります。

しかし申し訳ないのですがどの授業も「授業」として成り立っていないというのが本音の感想。(あくまでも私が参観した授業だけの感想です)。あらためて日本の教師は力量がある、と思ってしまう。

何がいけないのかというと "情報提供のみに終始している" ということ。

子どもに考えさせ、意見交換による教育力を発生させていない

外注授業はその道の専門家が進めていることが多いので、情報の質としてはAランクだと思うのですが、その情報を提供しているだけなので「授業」としてはかなり質の低いものになっている。

たとえば、発問をして、子どもの意見が分かれたとします。私たちはそれそれの理由を発言させ、時には意見をたたかわせて考えを深めたり、さらに新しい課題を持つように導きます。外注授業はそれができない。なぜか……。

それは「子どもを知らない」からです。

私たちは目の前の子どもが、場面によってどのような考え方をしてどんな発言をするのかを「知っている」のです。知っているからこそ、意見交換を "学びが深まる方向で" 「瞬時に」プロデュースすることができる。これはベテラン、若手に限らずできる。気づいていないだけで誰でもやっている

実はこのことは、上から指導案が降ろして「同じ授業をしなさい」という文科省・教育委員会もわかっていない。

同じ授業などありえない。授業は生き物で、子どもたちによってその授業は様々に変化する。そしてどう変化するのかを見通すことができるのが担任。文科省・教育委員会はできない。

ちなみに、飛び込み授業をするような名人教師は、授業を進めながら子どもを知る作業をしている。授業を見ているだけでこの子はどんな子なのか見えてくる。ここまでくると名人技。

そんな名人技の授業は、長い教員生活の中で私は二度しか見ていない。全く違った思想をお持ちの二人なのだが、私の中の "授業名人"。

教師はもはや病気で休むことも許されないのか

教師の健康面について文科省・教育委員会は真剣に考えてほしいというお話を再度書きます。それは働き方の改革をするだけではない。医療保障を充実させることは当たり前。特に欠けているのは、病気になって休むことになってしまった時の代行教員の確保。全国的に足りていない

私自身も、心筋梗塞、網膜剥離、狭心症で入院経験あり。その時も代行教員がいなくて、校内の職員でまかなった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。病気になって体が弱っている時に、さらにストレスがたまる、ということだ。

教師の精神的疾患による休職者数もあいかわらず5000人を超えている。2000年代になって急増した精神的疾患による休職者の数が5000人を超えて横ばいになっているのは、仕事が楽になったからではない。教師の絶対数が増えていないことと、もはや休むことさえ許されなくなっているからだ。

教師になった年の夏休みに亡くなった息子の友人もいた。精神的疾患で休まなければならなくなった同僚もたくさん見てきている。ところが文科省・教育委員会はそれを教師の健康管理の問題や指導の問題、さらには教師批判をしてくる保護者の責任や管理職の学校運営の責任にして、自らの教育政策を振り返らず、その対策も何もやろうとしない。

教師が身体を通して異議申し立てをしても、子どもたちが命を落としても動かない日本の教育行政。いったいどこから手をつければよいのだろうか。でも私たちはあきらめず、声を出し続けていくつもりだ。

手帳の上からどいてください



ヨシムネ君、手帳の上からどいてください。

仕事ができません。

来週から後期の授業が始まるのです。

準備を進めないと。


「むり~」ではなくて『後で~』だった

●異年齢遊び集団の中での知恵

かつて地域には、異年齢の遊び集団がありました。つまり、年齢の違う者が一緒になって同じ遊びをしていたということです。

しかし、同じ遊びをするということは、そこに当然ハンディが生まれてきます。逃げる、追うの走力が備わってなければならない鬼遊びであれば、幼い子どもたちは簡単に捕まってしまいます。これではせっかくの楽しい遊びも面白くなくなってしまいます。遊び自体が成立しなくなる危険も出てきます。そんな中で子どもたちが考え出したシステムが「ミソッカス」制度です。
 
「ミソッカス」とは、たとえば走力、体力の劣る小さな子どもは、全員の了解によって「ミソッカス」とし、一緒に遊ぶけれど捕まっても鬼にならないようにしたり、わざと見逃したりする「制度」です。

注目すべきは、この制度が、日本全国に共通に広がっていた、ということです。

「ミソッカス」制度が、全国に共通に存在していた証拠として、地方によって様々な呼び方がある、ということがあげられます。

アブラボウズ(長野)、オマメ(岡山)、オミソ(神奈川)、カス(和歌山)、カズノコ(富山)、コヌカ(岐阜)、ダゴ(静岡)、ボウヤ(群馬)、
ハンパ(大阪)、ミッキ、ミッキョ、ミッチョ(兵庫)


そしてさらに、地域によってその呼び名に若干の違いもあるようです。みなさんの地方、地域ではどんな呼び方をしていたでしょうか。


●蔑称ではなく「つながる」ための知恵

「ミソッカス」とは、味噌の「滓」ですから、いらないもの、臭いものという意味で、一見蔑称のように聞こえます。また、そのルールも、一人前に扱ってもらえないのですから、差別的な制度のように見えるのです。しかし意味はまったく逆であったということを私たちは知らなければなりません。

つまり、当時の子どもたちは、「ミソッカス」の子をつくることで、その子を排除するのではなく、仲間として受け入れていたということです。

また、「ミソッカス」のルールと対象になる子を決めるのは、遊び集団の年長者やガキ大将だったはずです。ところが、誰が対象でどんなルールを適用するのかは、はっきりと確認されたり、その子に言い渡したりはしなかったような気がするのです。つまり極めてあいまいだったと思います。そこにも当時の子どもたちの、幼い子どもたちに対する優しさと、気遣いが伝わってくるような気がするのです。

ちなみに、「あーとーでー」(後で……)という遊びの断り方についても、当時の子どもたちの優しさと気遣いが感じられるのです。

「ムリー」(無理)と冷たく断ることはしなかったということです。

教師には子どもとの対話と「学び」が大切です

良かれと思って指導したことが実は子どもを傷つけていたり、権利を奪っていたりすることが私にもありました。それを乗り越えるためには教師自身の「学び」しかないのです。

「気になる子」が目につくのは「気になる子」が悪いのではなく「気にしている教師の目」を再検討しなければなりません。

席を立ち歩いてしまう一年生には逆に、そもそも一年生の年齢の子が45分間椅子にきちんと椅子に座っていることについて再検討してみましょう。すると、立ち歩いていることが気にならずに、座っている子の方が奇妙だと思い始めます。このように指導は多角的に見ていかなければなりません。

すぐに暴力をふるってしまう子は自分自身が過去の学級や保護者によって暴力を受けた経験があるという背景があります。教師自身の学びの第一は子どもの事情や生活背景を知ることです。その為には子どもと対話しなければなりません。聞き取りではありません。対話です。

対話と同時に必要なのは科学的な学びです。子ども一人ひとりが前を向いて笑顔で生活し、課題を乗り越えて生きていくためにはどういった指導が必要なのかの教師自身の「学び」です。

子どもたちの命や権利を守るためにも、教師の対話と学びが保障できない今の日本の現場の異常な忙しさについては、もっと強く批判されなければならないのです。

日本の教師は許されているのだろうか?

日本の教師は許されているのだろうか?

厳しかったけれどあの先生のおかけで……

大甘で何も教えてくれなかったけど、一緒にいると安心できたから……

自分も含めて、子どもたちから色々な権利を奪い続けてきた教師は、

子どもたちに許されているのだろうか。

自分も含めた日本の教師の傲慢さは、逆に何かに怯えているとしか思えない。

うなづき方、首の傾げ方まで、どの学年学級も統一させていくことを大真面目にやっている日本の学校の大いなる罪。

日本の学校、教師は、子どもたちからこれ以上、何を奪おうとしているのだろうか?

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塩崎義明(しおちゃんマン)の『公式メインブログ』です。教育問題について語ります。⇒ 管理画面

37年間千葉県の小学校で学級担任として勤務。退職後2つの大学で非常勤講師。生活指導・進路生徒指導、特別活動、発達障害と学級づくり等の講義を担当。2月、3月には小学校現場にも臨時講師として勤務。全国生活指導研究協議会常任委員。著書『教師と子どものための働き方改革』『学校珍百景』 他。黒猫大好き。

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ヨシムネ ♂
2005年8月生まれ。2006年8月に動物病院からしおちゃんマン家にやってきた。

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ねね ♀
2008年6月生まれ。教え子(当時小6)達が公園で保護。2008年6月よりしおちゃんマン家の家族に。2017年7月28日逝去。

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