最近学校で、お金を払って外注授業をしてもらう取り組みが目に付くようになりました。
本来授業をする場所の学校が、お金を払って外部に授業をしてもらうといったこと自体が「学校珍百景」なのですが……。(笑)
この外注有料授業を参観させてもらう機会が何度かあります。
しかし申し訳ないのですがどの授業も「授業」として成り立っていないというのが本音の感想。(あくまでも私が参観した授業だけの感想です)。あらためて
日本の教師は力量がある、と思ってしまう。
何がいけないのかというと
"情報提供のみに終始している" ということ。
子どもに考えさせ、
意見交換による教育力を発生させていない。
外注授業はその道の専門家が進めていることが多いので、情報の質としてはAランクだと思うのですが、その情報を提供しているだけなので「授業」としてはかなり質の低いものになっている。
たとえば、発問をして、子どもの意見が分かれたとします。私たちはそれそれの理由を発言させ、時には意見をたたかわせて考えを深めたり、さらに新しい課題を持つように導きます。外注授業はそれができない。なぜか……。
それは
「子どもを知らない」からです。
私たちは目の前の子どもが、場面によってどのような考え方をしてどんな発言をするのかを「知っている」のです。知っているからこそ、意見交換を "学びが深まる方向で" 「瞬時に」プロデュースすることができる。これは
ベテラン、若手に限らずできる。気づいていないだけで誰でもやっている。
実はこのことは、上から指導案が降ろして「同じ授業をしなさい」という文科省・教育委員会もわかっていない。
同じ授業などありえない。授業は生き物で、子どもたちによってその授業は様々に変化する。そしてどう変化するのかを見通すことができるのが担任。文科省・教育委員会はできない。
ちなみに、飛び込み授業をするような名人教師は、授業を進めながら子どもを知る作業をしている。授業を見ているだけでこの子はどんな子なのか見えてくる。ここまでくると名人技。
そんな名人技の授業は、長い教員生活の中で私は二度しか見ていない。全く違った思想をお持ちの二人なのだが、私の中の "授業名人"。