2019/12/31
【エッセイ】教師と子どものための働き方改革
[本文要約]〇教師の異常な多忙化は、国家の意図的な政策であり、ある意味 "思う壺" だと考えてみたらどうでしょうか。
〇教師の『働き方改革』は、教師の忙しさの問題だけでなく子どもの権利と命の問題でもあるという視点から考えていく必要があります。
〇教師の『働き方改革』を、[失った時間][違いをリスペクトできる同僚性][子どもへの "優しさ" ]を "取り戻す改革" であると位置づけて取り組むと、何を解決し、どう乗りこえていけば良いのかが見えてくるはずです。
[本文]
■忙しいのではなく "忙しくさせられている" ことの自覚から
国家は、教育の仕事を安上がりに、思い通りに動かそうとします。その為には、現場から国家・政策に対する異議申し立ての声が上がっては困ります。それを防ぐために、教師個々をバラバラにして共同の機会を奪い、忙しくさせて声をあげる元気を奪う必要があります。これは労務管理の基本の一つです。……と考えてみたらどうでしょうか?
実際に "国に貢献できる子どもづくり" を強く謳った新教育基本法は、現場に「一斉・一律、競争」の教育を強く求めました。そしてそれは、教育を国家統制で進めていくことを宣言すると同時に、教師に異常な多忙化を生み出しました。
現場では、周りに合わせるために労力を使わなければならなくなりました。さらには、自分(の指導方法)だけ違っていたり、遅れたりすることに対して、とてつもない焦りの気持ちが生まれるようになりました。(一斉・一律政策)
一方で、「どこよりも質の高い教育サービスをいたします」「結果や成果も出します」といった、目に見える教育成果を競う忙しさも生まれました。学力テストしかり、部活問題しかり……、見た目・出来栄えの評価を優先する教育もその一つです。さらにそこには「説明責任」が発生し、教師個々への評価もからんできます。成果・結果が厳しく求められ、その責任を問われるので、教師はますます追いつめられています。(競争政策)
教師個々をこんなにも追いつめておいて、政府・文科省は何も手を打たないばかりか、変形労働時間制など、文科省が言い訳できる数値を出すためだけの対策をとるだけです。私たちが望んでいる "教員の数を増やすこと" は絶対にしようとしません。それだけで、今の問題の半分は解決できると考えているのですが(実は文科省も同じことを考えている)、それをやろうとしない……。このように考えていくと、私たちは、忙しいのではなく、 "忙しくさせられている" としか考えられないのではないでしょうか。
そしてそれが国家の思う壺だとしたら、 "怒り" がわいてこないでしょうか?「くだらない!」と "笑い飛ばす" ことはできないでしょうか?
忙しさは教師個々の力量の問題ではありません。そのように考えさせるの国家のねらいなのですから。
■「忙しい」では済まされない
殺人、耐震工事のされていないブロック塀の事故、いじめ迫害が原因と考えられる自死、被虐待死、熱中症死、交通事故死……。子どもの命が理不尽に奪われる事件が続いています。短い期間に、これだけ多様な原因で子どもの命が奪われた時代は過去にあったでしょうか。そしてこれらの事案は、大人の環境整備やケアにより、防ぐことができたかもしれない事案ばかりです。もはや日本の社会・学校は子どもの命を守れなくなっているのではないか、という疑いと不安が押し寄せてきます。
その中でも、愛知の豊田市の小学校で、校外学習から帰ってきて熱中症で倒れ、その後亡くなった事案は、学校の環境問題(エアコン設置問題 他)、そして教師の指導の問題…、といった今日の日本の教育問題を私たちにつきつけました。酷暑の中、公園に連れ出さなければならなかったこと、担任の判断で中止にできなかったこと、救急車への連絡が遅れたことなど……、実はその背景には、今日の学校現場の「教師の生きづらさ」がそのまま映し出されていると言えるのではないでしょうか。
子どもの権利と命を守ることをベースにして、学校を変えていかなければなりません。私たちの働き方改革は、教師が大変だから改革する……ということだけではないのです。
■失われた三つを取り戻すために
教師の異常な忙しさを生み出した教育政策により、日本の教師は【時間・同僚性、そして子どもへの "優しさ" 】を失いました。
[失った時間]とは、子どもたちと向き合う時間であり、学びを構想する時間であり、命を守り、権利を育てる指導の為の時間です。子どもにプリントをやらせておいて、担任は別の仕事をやらなければならないのが学校現場の現実です。「忙しくて仕事をする時間がない」というのは、教師の現実の笑えない笑い話なのです。
[同僚性]とは、強い力に従う、足並みをそろえる「同僚性」ではありません。教師個々の実践の自由を保障し、かつ、お互いの違いをリスペクトしつつ、時には前向きに批判し合うことのできる関係です。そしてお互いの考えの違いがわかり、それでも一致点を見出す話し合いで共同できる関係です。そこには、仲間の苦悩についても当事者性を持って取り組むことも含まれています。
[教師の "優しさ" ]とは、子どもをワザとらしい優しさで管理し、排除に結び付く進路を示すことではありません。子どもたちを信頼し、任せ、それでも失敗を許して次へのステップを示していく指導であり、ケアでもあります。仲間との共同を、信頼をベースにした自治の指導こそが今教師に求められている「優しさ」だと考えています。
これら「失われた三つ」を取り戻すことをターゲーットにしたときに、私たちはどんなことと闘い、具体的にどう取り組んでいけば良いのかが見えてくるはずなのです。
<参考>

