私も大学の講義で遠隔授業としてオンラインを利用し、テキスト資料を提起したり、動画視聴をお願いしたりしています。また新型コロナ問題が沈静化した後でも "学びにオンラインをどう利用していくのか" は、大切なテーマだと考えています。
私がオンライン授業に対して批判的な記事を書き続けているのは、今後大切なツールになると考えているからです。「オンライン授業はする必要がない」という主張ではありません。誤解のないようにお願いしたいと思います。
さて…、教育関連企業の発信する動画は "楽しい「番組」ではあるけれど『授業ではない』" と主張してきました。それは、「間」を大切にした視聴者(子どもたち)との "やりとり" を想定していないからです。
Web会議ツールを利用した。双方向型の授業であれば "やりとり" メインなので、動画配信型の授業の課題をクリアーできるのではないかという意見があります。しかし、オンライン授業は、双方向型であっても「集団の教育力」が発生しづらいので課題が多いと考えています。
ではここでいう "「集団の教育力」が発生しづらい" とはどういったことでしょう。そのことにかかわって三点、問題提起をしておきたいと考えています。
一つ目は、オンラインは「教師や成員が感じる力関係」や、そこから生まれるいわゆる「空気」とよばれているものを感じにくい、ということです。(それが発生しているのかもわからない。発生していてもわかりにくい。)
リアル授業では口数が少なかった学生が、オンライン授業で急に饒舌になったという話をききました。これは逆に言えば、リアルでは感じられていた「空気」をオンライン上では感じていないということだと思います。
私たちは、学級集団づくりにおいても授業においても、集団のトーンや影響力、力関係に視点をあてて、それを組み替えたり、支援したりケアーしたり……、いわゆる「指導」してきました。
授業でも同じで、そういった教育活動の中で、子どもたちは教師の「指導」やその背景にある社会に批判的に介入し、さらに学びを要求したり広げたり、自分で切り拓く力を持つようになることを見通していました。オンラインでは、そのとっかかりとしての集団のトーンや影響力、力関係が見えてこないということです。
二つ目が、オンラインでの教育活動は、関係性の発展が薄い、ということです。
たとえば……、私たちが、働きかけるものが働きかけられる、という時に、それは一対一だけの関係だけでなく、極めて集団的に成立するものだと考えています。
教師がAさんに働きかける行為が、集団にとって何らかの影響を広げて、それが教師に返ってくるということが、私の場合は多かったです。そしてそれは、そもそもAさんに働きかけたことで集団からも働きかけられたのだと考えています。
オンラインの教育活動は、双方向型であっても、そういった広がりや発展性が薄いと考えます。理由は、オンラインはシステム的に一本釣りの竿がホストから複数投げ入れられているだけで、竿と竿の関係性が薄いということです。
( ̄‐ ̄)。oO(竿と竿の関係性があるのかもしれないけれどそれは海の中で見えない。) 三つ目は極めて、具体的なことですが、オンラインでは「独り言が拾えない」という面があり、リアルな授業が展開できないということです。しおちゃんマン流に言えば、『嘘芝居』的な授業になる、ということです。
オンライン授業は、わかっているふり、良い子のふり……、そういった教育活動が展開される危険性があるということです。それは「独り言が拾えない」からだと表現しました。
このように考えてみると、双方向型の "やりとり" での留意点として、「○○さんらしい見方・考え方だが、これに対してわたしは~」といった、成員同士の関係をつくる応答に心がけることが大切になってくることがわかります。
また、成員同士の関係をつくりやすいように、グループ会議を多用したり、子どもたちの側からのプレゼンテーションを共同で作成する、といったことも考えられます。
オンライン教育は "教室を超える" といった強みがあります。場合によっては、世界に拓かれます。学ぶ権利と自由、平和をベースにした、世界に広がる(つながる)「学び」をつくっていくチャンスであるとも言えるのです。