2014/09/18
遊具が無くなっていく
●マンションのロビーでゲームをする子どもたち子どもたちの放課後のあそび場が無くなったと言われて久しいのですが、今ではもはや場所だけではなく、時間も無くなりました。習い事をしないと友達ができない……、いじわるな言い方をすれば、友達づくりまでお金をはらわなければならなくなったと言っても過言ではありません。
家庭訪問で地域を歩いていると、マンションのロビーやホールでゲームをしている子どもたちにたくさん出会います。しかし、「もっと楽しいことがあるのに……」と思うのは大人だけで、子どもたちにとってはこれ以上の楽しいことはないのです。一緒に画面を眺めているだけの子どもたちは群れていても孤独です。
しかし、子どもたちから多くの「楽しいこと」を奪い、孤独に見えるようにしたのは、そんな子どもたちを見て眉をしかめている私たち大人自身だということに気がつかなければなりません。
●遊具が無くなった校庭
最近の小学校は遊具が少なくなりました。
私の勤務校でも、鉄棒、ろくぼく、うんてい、のぼり棒しかありません。ブランコはもちろん、小学校の定番だった、タイヤ跳びも、ジャングルジムもありません。
昔は、もっといろいろな遊具があったような気がします。ブランコ、タイヤ、ジャングルジムの他にも、回転ジャングルジム、シーソー、ぶらさがり式シーソー、すべり台、丸太橋、エトセトラ……。
校庭は子どもたちにとって、運動をする場だけではなく、あそびの場でもあったのです。
そんな子どもたちから遊具を奪っておいて、教師は外であそべ!とウルサク言います。しかたなく子どもたちは、ボールであそぶか、鬼ごっこをするしかありません。
ところが教師は、ボールは蹴るな、投げていい場所はここだけ……、と、さらにいろいろな条件をつけていきます。いったい子どもはどうやってあそべばよいのでしょうか?
●遊具を無くしていったのは "責任社会"
遊具がなくなっていった理由は「責任をとらなければならない社会」の仕組みが、遊具による事故に対応できなくなったからです。子どもの事故は「自己責任」は通用しません。学校や教育委員会の責任が厳しく問われるし、そうでなくてはならないと考えています。
ところが学校は教育委員会は、遊具による事故を、それを無くすことで対応しました。
"これで自分たちが責任をとることから回避できる" と考えたのかもしれません。
しかしこれでは、交通事故を無くすために車を無くすのと同じです。
子どもたちの安全を守るとは、危険な環境を取り除くこともありますが、一方で、子どもたち自身に危険を回避する力を育てることをしなくてはなりません。そのためには、時には "危険な物" と向き合うことも大切です。(遊具が「危険な物」としして存在しているのではないことはもちろんです)
今の子どもたちが、「こんなことで怪我をするの?」といった事故を起こしてしまうのは、こういったことと無関係ではありません。
さらには、本当に危険な物、危険なこと、やってはいけないこと、とはどういったことなのかを見抜く力、判断する力も育っていません。
●遊具の遊び方はあいまいな方がいい
一方で、体育の研究校などでは、アスレチック型の運動器具(あえて遊具とは呼ばない)が設置されている場合があります。しかしそういった運動器具は、利用方法がきっちり決まっていて、子どもたちがそれを使ってあそびを生み出すことができません。
遊具は、あそび方が「あいまい」な方が良いのです。どんなルールでどう使うかは子どもたちが決められるものでなければ「遊具」とは言えないのではないかと思っています。
タイヤやジャングルジム、うんていのような遊具は、子どもたち自身があそび方やルールをつくってあそべる要素があるという意味で、優れた遊具だと思っています。
子どもたちのあそびが「大人の都合で奪われるか」「大人が勝手に使い方を決めてしまうか」のどちらかになってしまっています。そこには、子どもたち自身が利用方法やルールを決める、といった「自治」の考え方がありません。
子どもの「あそび」とは、仲間と交わっていることそのものだと言えます。心のどこかで仲間を意識し、はたらきかけ合っている、そのこと自体があそびなのです。そして遊具は、そういった関係を仲立ちするものであって、切り裂いたり、凍りつかせたり物であってはならないのです。