【道徳】
1961年8月20日、植木等(クレージーキャッツ)の歌う「スーダラ節」(作詞:青島幸男 作曲:萩原哲晶)は、空前の大ヒット。
『わかっちゃいるけどやめられない』は、当時の流行語になった。
植木等は当時、こんな変な歌…、不道徳な歌を歌うことを躊躇したそうだ。
そんな植木に対し植木の父は、
「『わかっちゃいるけどやめられない』は人間の矛盾をついた真理で、親鸞の教えに通じる。必ずヒットするぞ」と励ましたそうである。そして父の予言通り、この曲は大ヒットした。
「特別の教科道徳」(以下「道徳」)を考えるにあたって、いつもこの歌詞とこのエピソードを思い出す。
歌詞はこちら
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=F02683「道徳」は、子どもたち自身も「わかりきっていること」をああでもない、こうでもないと話し合わせている。
「わかりきっていること」をいろいろな切り口で意見することを多角的だの、多様的だのと評価するが、「わかりきっていること」そのものを疑うことはしない。
そして「わかりきっていること」ができないことを自分の心の弱さだから「がんばれ」と励ます。
さらに……、「自分を犠牲にして組織や国に忠誠的な尽くすことを賛美する。それが高次な「わかりきっていること」の達成だとして評価する。
子どもたちからしてみると、「それができれば苦労しない」のである。
いや、それを実行することに疑問を持っていても、「これは勉強だ、教科だ」と言われればば……、ましてや通知表で評価すると言われれば、わかりきった正解を探して
『嘘芝居』を演じるしかないだろう。
子どもたちが求めているのは、そんな
『嘘芝居』を演じなければ生きていけない「生きづらさ」であり、そんな苦悩に対する共感である。
そして『嘘芝居』の生きづらさを超えた生き方の発見であり、共に探してくれる仲間である。
「道徳」は、♪「わかっちゃいるけど、やめられない」のが人間らしさであり、「可笑しみ」であることに触れようとしない。
立川談志も、『
人生成り行き -談志一代記-』で次のように述べている。
「立川流創設の頃まで、あたしは〈人間の業の肯定〉ということを言っていました。最初は思いつきで言い始めたようなものですが、要は、世間で是とされている親孝行だの勤勉だの夫婦仲良くだの、努力すれば報われるだのってものは嘘じゃないか、そういった世間の通念の嘘を落語の登場人物たちは知っているんじゃないか。人間は弱いもので、働きたくないし、酒呑んで寝ていたいし、勉強しろったってやりたくなければやらない、むしゃくしゃしたら親も蹴飛ばしたい、努力したって無駄なものは無駄--所詮そういうものじゃないのか、そういう弱い人間の業を落語は肯定してくれてるんじゃないか、と。」
さらに、
「寄ってたかって『人間を一人前にする』という理由で教育され、社会に組み込まれるが、当然それを嫌がる奴も出てくる。曰ク、不良だ、親不孝だ、世間知らずだ、立川談志だ、とこうなる。それらを落語は見事に認めている。それどころか、常識とも非常識ともつかない、それ以前の人間の心の奥の、ドロドロした、まるでまとまらないモノまで、時には肯定している。それが談志のいう『落語』であり、『落語とは、人間の業の肯定である』ということであります。『なら、いいこと、立派なことをするのも業ですネ』と言われれば、『そうだろう』ではあるものの、そっちの業は、どっかで胡散臭い。」
私たちは、この「胡散臭さ」に、そろそろ本気で向き合う必要がある。「学校現場のハラスメント」事例報告フォーム