2021/03/03
#教育的排除と教育的包摂
一斉・一律、競争の "国家の統治行為としての義務教育" の政策は「教育的排除」が生み出します。それは、まわりと同じ行動がとれない(とろうとしない)発達の特性をもった子や
親子のアタッチメントトラブルを抱えて苦しんでいる親子の排除であり、
経済的に恵まれていないと教育内容についていけない現実や、オンライン機器か準備できない「教育格差」としての「排除」です。
国家はそれを、ICTを利用した『個別最適な学び』を打ち出して「教育的包摂」を打ち出していますが、
授業の画一化が進んだり、子ども自身の自己決定権を奪ったりして、
逆に「教育的排除」が進む危険性があるとみています。
子どもたちは、どのような個性をもった子であっても、
主権者としてケアーされなければなりません。
その進路や生き方は尊重されなければなりません。
学びは子どもたちの権利であるという視点で教室を見直した時に、
朝の会から帰りの会までの学校生活や授業の在り方が変わってくるのだと思います。
「教育的排除」と「教育的包摂」の境界線に "教育的自治、子ども自治、子育て自治" があるのだと考えます。
それを保障する、福祉と教育のありかたについても、
コロナ禍で明確になった諸問題を見直しながら考えていかなければならないのかもしれません。
(*ᴗˬᴗ)⁾⁾
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